「クリントンの北京入り知らなかった」
こうした結果、前コラムで紹介したように、何培蓉は24日午前、筆者にネット電話「スカイプ」で「会いたい」と連絡を入れてきた。筆者は当初、陳光誠から何に連絡が入り、24日に山東省まで迎えに行ったと思っていたが、何培蓉から具体的に取材してみると、事実関係が違っていたことが分かった。陳を北京に連れて来て計画を立てた後、日本の支援が必要と考えたため、筆者に連絡して来たのだった。
筆者が何培蓉と北京で会ったのが25日午前11時。「緊急に重大なことが起こった。何が起こったかは言えない。明日、遅くても明後日には発表するのでそれまで待ってほしい」と鬼の形相で訴えたのだった。つまり26日午後9時に「陳脱出」を公表するという計画を念頭に置いた発言だったのである。
筆者はその時、陳光誠が東師古村を脱出したなんて想像もしなかったが、「来週、米中戦略・経済対話が北京で開かれ、クリントン国務長官がやって来る。クリントンは陳光誠問題に大きな関心を持っているから、タイミングがいいのでは」と話した。何は、米中戦略対話もクリントンの訪中も知らなかったようで、「いい情報だ」と喜んでいた。
「陰謀説」が間違っている理由
米中外交問題に発展した陳光誠事件の背景を分析する際、陳の支援者と米政府が最初からつながって計画を立てた「陰謀説」を唱える国内外の有識者がいるが、何培蓉が米中戦略対話の開催を知らなかったというエピソードは「陰謀説」を否定するものだろう。陳光誠もまさか、クリントンが北京に来るから村を抜け出したということもあり得ない話だった。
何は筆者と会い、25日午後に高速鉄道で南京に帰った。自分の身の安全を守るためだった。同日午前に北京の隠れ家で、何は陳に対して分かれ間際、再度こう聞いた。「国内に残りたいのか、それとも米国に出国したいのか」。すると陳は「国内に残る」と答え、26日午後9時に事実を公表することを確認した。
崩壊した何培蓉のシナリオ
しかし何培蓉が北京を去った25日夕から26日午前に事態は急変する。何の知らない所で、誰かが26日午前、北京の米大使館に連絡し、陳光誠の保護を求めるのだ。何はこう解説する。
「米大使館に通知する過程で、情報が中国当局に漏れてしまえば、山東省の地元政府は陳の家族に危害を加える危険が高かった」
「26日午後9時に公表し、全世界に陳の脱出を知らせて関心を高め、陳の安全を守る」というシナリオは完全に崩れた。
米大使館や館員の電話は盗聴されている可能性が高かった。「『陳脱出』の情報を公開する大きな目的は、陳一家の安全を守るためだったが、公表前に山東省の当局に知られれば、彼らは迫害するだろう」という懸念は現実のものとなった。
当局が情報察知、
一家への「報復」始まる
26日深夜、陳氏の脱走を知った地元当局者ら20人以上が、陳の兄・陳光福の自宅の壁を乗り越えて侵入、一家に暴力を振るったのだ。陳を脱出させたことに対する「報復」だった。このままでは殺されると恐れた光福の息子・陳克貴は包丁を取り出し、「正当防衛」のため当局者3人を切り付け、けがを負わせた。
陳光誠は筆者の電話取材に当時の状況をこう語った。「彼ら(当局者)は多くで寄ってかかって棒で彼(克貴)を殴り、衣服も破った。暴力は3時間も続き、顔面には深刻な傷跡ができた」
陳克貴は5月9日、最高刑で死刑も適用される故意殺人罪で逮捕された。中国の法律では、未遂でも殺意が立証されれば、故意殺人罪が適用されるからだ。しかも地元公安当局は弁護人として当局が指定した弁護士を使うよう強要してきた。当局ペースで公判が進むと懸念した光福や克貴の妻・劉芳は、人権派弁護士として有名な上海の斯偉江や北京の丁錫奎に依頼するが、当局はこれを拒絶し続けている。