「故郷の山東省の迫害状況がいまもひどいからか」
「そうだ」
「母親とは電話したか」
「した。私が『離れます』と言うと、母は『安全に注意しなさい』と答えた」
「『うれしくない』というのは複雑な気持ちか」
「そうだ」
「また中国に戻りたいか」
「そうだ」
「米国の生活に期待は」
「分からない」
中国当局は、陳の友人らが病院に見舞いに来て陳と面会することは許さなかったが、陳は自由に電話をかけたり、受けたりすることはできた。私も6回にわたり電話し、それぞれ10分前後取材した。陳はすごい記憶力である。2回目の電話で名乗ると、「ああ城山か」と答える。いつもはこちらが質問すると、饒舌に答えるが、この日は祖国を離れる感慨がこちらにも伝わった。口数も少なかった。
厳重な警備の中、ニューヨークに
UA88便は厳重な警備で、乗客は搭乗前のゲートでも荷物を調べられた。最後に車椅子を押され、一般搭乗口とは違う通路から陳が搭乗するのが遠くに見えた。一家はファーストクラスに乗り、機内では同乗した米当局者が、報道陣も含めて陳との接触を認めなかった。
中国共産党・政府もさっさと陳光誠を海外に追い払いたかったのだろうか。さっぱりした「幕切れ」だった。
20日朝。北京では、ニューヨークに到着した陳の記者会見を生中継した米CNNテレビの映像を見ることができた。通常、陳の問題を放映するNHKなど海外放送の映像には黒い幕を掛けるなど規制することが多いが、日曜の朝だったからチェックを忘れたのか。それとも、もはや海外に出て影響力が弱まることが予想される陳への注意力もそれほど高くなくなっていたのか――。
陳を救った何培蓉との再会
筆者は5月2日、本コラムで「『盲目活動家』救出劇 陳光誠を救った女性活動家の勇気と行動力」と題したリポートを執筆した。しかし同2日に事態は大展開するのである。
陳光誠はこの日、4月26日午後から保護されていた米大使館を離れ、朝陽病院に移るのだ。国内でとどまり、人権擁護活動を行いたいと訴えた陳の気持ちが揺れ動き、米国亡命、そして留学へと移っていくことは【後篇】で触れたい。
その後の取材で、筆者の前リポートの事実関係に訂正しなければならない点がいくつかあることが分かった。陳の出国直前である5月17日、前リポートの主役で、陳の奇跡の救出劇を計画・実行した女性人権活動家・何培蓉さん(40)に会うことができ、「救出劇」の全容を聞けたからである。
4月27日午前11時に江蘇省南京の自宅で警察に拘束された何が釈放されたのは5月4日だった。警察は陳救出の経緯などを細かく事情聴取したが、乱暴な態度ではなく、何に対して友好的に接した。警察と一緒だが、外食することも許されたという。