シュメール文字を操る青年の正体
翌日、まだ眠いというラフィッドを残してホテルのロビーで日記を書いていた。
するとアリ・ブナヤンからの着信。
「おはよう。何か手伝うことある?」
自分からそんなオファーをしてくるなんて意外中の意外。まだ寝ているラフィッドに「電話して聞いてみなさい」と言われたのだろうが、いろいろ話してみたかったのでよい機会。
「おはよう」
アリ・ブナヤンが階段でロビーに降りて来た。香水のいい匂いがする。イラク男子はよく香水を使う。髪型もきちっとキマっている。このあたりのイラク男子の身だしなみはすごい。
前日にアリ・ブナヤンが私の名前をシュメール文字で描いてくれると約束していたので、私もロビーで彼の名前をひらがな、かたかな、漢字で書いてみせた。漢字について説明すると、
「あー、1文字で意味持っているんだね。シュメール文字もそういうのがあるよ」
さすが考古学の徒。大抵の外国人、英語やアラビア語を話す人は1文字で何かの意味があるというと、「へー!」と驚くが、象形文字から発展したシュメール文字を知るアリ・ブナヤンには身近な文字の1つなのだ。
「じゃあ、今度はシュメール文字で君の名前を書いてあげるよ」
ローマ字でまず私の名前を書いて見せると、アリ・ブナヤンはおもむろにスマホを取り出し、アプリか何かに打ち込み始めた。そして変換し、画面に出た文字を見て、紙に描き始めた。なんだ、全部覚えているわけではないのかと思ってしまうが、あとで調べてみるとシュメール文字は千文字ほどあるようだ。
その書き方に惚れてしまいそうになった。三角形を書いて、そこから直線を勢いをつけて力強くピュン、ピュンと線を飛ばすように書くのがなんともかっこいいのだ。出来上がった文字はものすごく複雑で何がなんだかわからないけれど美しい。本来は粘土板に葦製のペンで楔形(=三角形)と線の跡をつけて書く。
丁寧かつ大胆に文字を書くブナヤン。こういった姿をみると改めて尊敬の念を感じる。というかここにくるまでアリ・ブナヤンがどんな人物なのかほとんど聞く機会がなかった。
「アリ・ブナヤンは学生なんだっけ?」
「そうだよ。ナジャフのクファ大学に通っていて4年生。午前中は大学に通って、午後は歴史的遺産やイスラムについての雑誌を編集する仕事をしているだよ」
家から職場は遠いらしく夜8時くらいまで働いて1時間くらいかけて帰ってくるらしい。なかなかの勤労学生だ。
シュメール文字を読み書きできるのはすごい気がするが、どれくらいすごいのかいまいち想像がつかない。
「クラスメイトで読み書きできるのって何人くらいいるの?」
アリ・ブナヤンは「へへへ」と笑った。
「いないよ!僕だけだよ!先生だってできないもん」
大学の授業で習ったのかと思いきやそうではないのだ。夏にイスタンブールのサマースクールに参加したというので、そこで覚えたのかと聞くと、
「それだけじゃぜんぜん無理」
「じゃあ、どうやって?」
「自分で本やインターネットを使って調べたり、わからないことは研究者にメッセージ送って聞いたり、独学だよ」
なんという根性。イラクの文明を誇らしく語る人はいるが、ここまでする人はそうはいない。彼は真のシュメール好きなようだ。
アリ・ブナヤンは以前メディアに取材されたことがあるようで、英語字幕の彼の紹介ビデオを見せてくれた。
インタビューに答えるアリ・ブナヤン。
「考古学を選んだのは文明を探求する冒険的な学問だからです」
「いつも目をつむると楔形文字が見えます。国立博物館でラマスーの前に立ってそれに触れた時、アッシリアの時代に時間移動したようでした」
「将来の夢は発掘の仕事をすることです」
「今、イラクの若者たちにこのイラクの文明について知って欲しいと思っています」
考古学者のホープといった感じではないか。ブナヤンにはたしかにナルシスト的な部分はあるが、シュメール文字が読める考古学の学生だなんて自分で自分に惚れてもおかしくないくらいかっこいい。
「将来は研究者になりたいと思っているんだ」
イタリアとかイギリスとか海外の大学院で勉強したいとも思っているそうだ。
そんな話をしていると、そろそろ出かけようかとラフィッドから電話。わずかな朝の時間だったけれど、ブナヤンとの楽しい会話だった。
朝のカルバラの町を歩き、古い市場を散歩して昼にはアリ・ブナヤンはナジャフへ、私とラフィッドはバグダッドへの帰路に着いた。帰り際にアリ・ブナヤンにお礼のお金を渡そうとするが、受け取らない。「私の気持ちだから、お礼だから」というも、爽やかな笑顔を残してナジャフ行きのバス乗り場へと消えて行った。ナルシストは、他者にも優しくて、己の美学にも溢れていた。
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