2024年4月25日(木)

イラクで観光旅行してみたら 

2020年3月21日

 ツアー旅行から一転、旅はイラク人女性との二人旅に。向かうはイスラム教シーア派の人たちが聖地とみなし、世界中から巡礼に訪れるイラク中部の都市ナジャフ。IS(いわゆるイスラム国)支配後のイラクの日常や現地の人々との交流を綴った旅行記。

ナジャフ名物のお菓子とシーア派初代イマーム・アリーの絵

赤髪のイラク人と女二人旅

今回のイラク観光旅行は、首都バグダッドにある観光旅行会社に滞在中の詳細を依頼していた。

 この旅行会社は主に週末にツアーを企画する。なので私は2回の週末をツアーに参加し、その間の平日を私専用でガイドを雇って旅行することにしていた。

 しかしバグダッド到着時に、空港に迎えに来てくれていた旅行会社の代表、アリ・マフズミからある宣告をされていた。「個人ガイドはまだ見つかってないから、出発までに見つけるね!」

 ガイドがいない……。この時点でガイド決定までに残された日にちは2日。嫌な予感は的中した。けっきょくのところ、アリ・マフズミは私のガイドを見つけることができなかったのだ。

 しかし「困った」が転じて福となす。前々日のサマラの街の観光ツアーに参加して出会った赤髪のラフィッド(詳しくはこちらからhttps://courrier.jp/columns/182130/?cx_testId=28&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=4#cxrecs_s

 が「私が案内してもいいよ」と言ってくれ彼女と一緒にカルバラとナジャフに行くことになったからだ。なんという展開。旅行先でたまたま出会った地元の人に、その国を案内してもらえるなんて、これこそ旅の醍醐味ではないか。

 プロのガイドでない人と行くので大丈夫だろうかと考えたが、そもそもイラクにプロの外国人相手の旅行ガイドがどれだけいるかも謎だ。ラフィッドが優しくて機転のきく人だとサマラのツアーで感じていたし、何度もカルバラやナジャフに行ったことがあるという。

 中東では男性と女性で入れるエリアがことなる場合もあるので、女性と行くほうが好都合でもある。

ところで、イスラム教シーア派とは

 こうしてシーア派の聖地、ナジャフとカルバラへの旅が始まったのだ。この2つの都市はサマラとともに、そしてサマラ以上に重要なシーア派の聖地だ。イスラム教徒がサウジアラビアにあるメッカに巡礼することに重きを置くように、シーア派の人はメッカだけでなく、カルバラとナジャフも聖地として崇めている。

 シーア派。なんともミステリアスな響き。これまで私が訪れた中東の国々、ヨルダン、アラブ首長国連邦はスンニ派が多数。私が当時、暮らしていたイラク・クルド自治区のアルビルも、時たま訪れるモスルもスンニ派が多数派だ。世界16億人いるイスラム教教徒人口の85%をスンニ派が占める。

 しかし、イラクではイスラム教徒人口の70%がシーア派、スンニ派は30%と両者がそれなりに存在する。

 両者の関係は複雑だ。ある湾岸諸国のスンニ派の人が、「シーア派よりもキリスト教徒のほうがまだ親近感を感じる」と発言する場面に出くわしたことがある。スンニ派もシーア派も対立なくなく暮らしている地域や時代もあるが、両者の溝は存在する。

 スンニ派シーア派の何がそれぞれ違うのか、いろんな本を読んではみたが、何か体感として理解したい。シーア派聖地、ナジャフとカルバラを訪れればシーア派の真髄がわかるのではないか、そんな期待が聖地訪問にはあった。

ナジャフで見つけたお祈りをする時に使う絨毯などを売る店

アバヤ女性だらけのバス乗り場

 出発の朝、宿泊先のホテルの迎えに来てくれたラフィッドは、真っ赤なサラサラロングヘアーはどこへやら。青いヒジャーブでしっかりと髪を隠し、真っ黒アバヤ(イスラム教徒の女性が身体のラインを隠すために着る黒い衣装)を身につけていた。

 「おはよう、ラフィッド。あれ、ぜんぜんこの前と違う!」

 「昨日、マニュキュアも全部落としたの。いつもの化粧もしてないしね」

 まだ赤い色素が爪やその付け根にじんわりと残っていた。これから向かうのは聖地だ。派手な化粧をしていたり、マニュキアをしているとモスクに入れてもらえないからだ。

 アイメイクなしでもまつげは天に向かい、キラキラぱっちりのお目目なのでほとんどのその迫力はかわらないのだが。というか、サマラでは赤髪にピタっとしたジーンズ姿はいていたラフィッドを見て信心深くはないだろうと決めつけていたが、彼女はこの2つの場所に行ったことがあるというのがまた意外だった。

 タクシーでバグダッド市内のナジャフ方面乗合タクシー・バス乗り場に到着。おじさんたちが客集めに「ナジャフ、ナジャフ、ナジャフ!」と連呼していて、活気にあふれている。

 初日に見たバグダッドとは違い、ここに集まる女性はだいたいアバヤを着ていたり、6、7歳の小さな子までヒジャーブをしている。女性だけで移動してもいい自由はあるようだ。8000イラクディナール、約800円でナジャフへ向かうミニバスは出発した。

 GPSを使って地図を見ながら自分がどこにいるのかを調べてみる。この日も検問で止められることはほとんどなかった。窓の外の景色はヤシの木と乾いた土地が続き、何の変哲もない町が現れるのを繰り返す。何を期待していたのか自分でもわからないが、見た目には「意外と普通」なのだ。だがかつては自動車爆弾やらいろんな攻撃がこの地域では頻発していた。

 政治の匂いがものすごくプンとすることはある。殉教者の看板と、その写真に囲まれた軍事部隊の基地が現れる。

喧騒の聖地ナジャフで出迎えてくれた「あの人」

 8時にバグダッドを出たバスは10時半にはナジャフ市内に入った。

 「さあ、もうここがナジャフよ」

 そう言われてつい、「本当に?」と聞き返してしまいそうだった。聖地ナジャフというわりにはあまりに普通の「町」に見えたからだ。なんだかこう、イメージとしては町が要塞に囲まれていて、女性みんな真っ黒アバヤを着て、厳かな面持ちで静々と人々が歩く場所を想像していた。

昼過ぎには一旦、お店を閉じで夕方またあける

 だが着いてみると車はビュンビュン走り、露天では派手な服やら、お菓子やら、ジュースやらを売っていて、ぼーっとしていたらひっくり返ってしまいそうなほど普通に活気のある町だったのだ。

 バスを降りる直前にラフィッドに花柄のアバヤ的なものを借りる。スマホを鏡がわりに己の姿を見てみるが、何かに似ている。既視感のあるこの姿は何か。閃いた。まさしく私は「てるてる坊主」だった。

 バスを降りて、てるてる坊主姿の私と、全身真っ黒アバヤに被り直したラフィッドは満パンになったリュックを背負ってナジャフの町をてってこ歩く。敬虔なムスリムなのか、怖いものなしのバックパッカーなのか、なんとも解釈しづらい格好だ。

 賑やかな露店の前を通り過ぎる。ただこの町も相変わらず殉教者やら宗教指導者の看板があちこちに立てられていた。

 簡単な身体検査と荷物検査を受けて古いバザールの入り口へとたどり着くと、そこには屋根付きの通りに左右ぎっりしりお店が並んだ空間が広がっていた。これぞアラブの世界。

 だが私はここであるものを見てたまげてしまった。シーア派初代イマーム・アリーらの顔を印刷した「奇抜な旗」に出くわしたからだ。旗の中のアリーは肩に垂らしたターバン、長い髪、長いまつ毛、鋭い目で何かを見つめていて、その様子は正直に言えば、怪しげで怖い感じがする。

 でも旗だけであれば、ここまではびっくりはしなかった。戸惑ったのはその顔の描かれた旗の形だ。旗はハート型をしており、それが万国旗のように連なっているのだ。まさしく「アイ・ラブ・アリー」と言わんばかりの体で、これでもかとアリーやフセインの顔が並び、可愛く飾られているのだ。アメリカのハイスクールドラマのタイトルじゃない。イラクのナジャフの古いバザールでの出来事なのだ。

シーア派の人にとって高貴な存在であるはずのシーア派初代イマームのアリーらが可愛く飾られている

シーア派初代イマーム・アリーとは誰か

 そうだ、シーア派とは何なのか。アリーとは誰なのか。避けては通れぬこの問題にここで腹をくくって向き合おう。ここからはラフィッドの解説と、自分で調べ直した事柄を記そう。

 大きく言えばスンニ派とシーア派の違いは、神(アッラー)の言葉を預かった預言者ムハンマドの後の正統な後継者(カリフ)を誰とみなすかという違いだ。

 モハンマドの死後、誰がその後継者、最高指導者になるか、モハンマドの同志であるアブー・バクルがなるか、血の繋がりのある親族、アリーがなるかで揉めた。

 アリーはムハンマドのいとこでありかつ、養子となった息子であり、かつ娘婿である(なんともややこしい関係)。結局は同志アブー・バクルが後継者になった。指名制でその後のカリフはウマル、ウスマーンと続いた。ウスマーンの時代は彼が殺害されることで終わり、その混乱の中でかつてのカリフ候補だったアリーが4代目カリフになった。アリーは首都をメディナから現在のイラクのクーファ(今いるナジャフの隣)に移した。

 しかしウスマーンが殺されたのはアリーの謀略だとして、第1次内乱(656~661年)が始まった。ウスマーンはウマイヤ家の出身で、その地位を継承した同じウマイヤ家のムアーウィヤを相手にアリーは戦った。一旦は戦闘は停止するも、徹底抗戦を求めてアリー側から離脱したハワリージュ派にアリーは暗殺される(スンニ派ではなく身内だった人に殺されたということ)。

 アリーの息子たちはウマイヤ家のムアーウィヤの死後のカリフの座を次の目標に、一旦、撤退をするが、ムアーウィヤが自分が退いた後を自分の息子に継がせようとしたため再び戦いが勃発。

 アリーの子でその後継者だった息子のハサンはすでに死亡しており、別の息子フセインがその戦いの中心に立つ。メディナにいたフセインはクーファを目指すが、途中でウマイヤ朝の勢力からの攻撃を受け、「カルバラの戦い」でフセインは殺された。

 ウマイヤ家がイスラム世界の統治者となり、それ以降、世襲制によりカリフ制が引き継がれることになる。血の繋がりを強調していたアリー側が負けたにもかかわらず、結局は勝利した彼らも血の繋がりで後継者を決めるという皮肉な結果となった。

 ただし池内恵氏の『スンニ派とシーア派』によると、現在のスンニ派とシーア派の対立は、「教義」をめぐる争いではないということだ。

 歴史的にはスンニ派優位の歴史が長く続いている。シーア派には「『虐げられた民』としての自己認識」がある。シーア派であることで迫害されている…という立場の違いで己のアイデンティーティーを意識している部分が強いと言い換えることもできる。


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