私たちは死んだら、千の風になるんだ
7月30日の夜、私は「その知らせ」を淡水の事務所を出たところで、自宅担当の秘書として長年仕えてきた同僚から受け取った。いつその瞬間が来てもおかしくなかったし、もう心の準備は出来ていた。
前日に、私はご家族の厚意で病室に入り、李登輝に最期のお別れをしていた。李登輝の容態が思わしくない段階に入ると、最期の時間は出来るかぎりご家族だけで過ごしていただきたい、という配慮から、私たち事務所の人間が病室に立ち入ることは控えてきた。しかし、いよいよの時を迎え、ご家族が声をかけてくださったのだ。
李登輝は呼吸が乱れ、苦しそうだった。ご家族からは「日本語でたくさん話しかけて」と言われた。
そう、李登輝にとって母語は日本語だった。私はこれまでいつもそうしてきたように、耳元で「総統」と呼びかけた。今まで何度「総統」と呼んできただろう。李登輝はいつも「総統」だった。退任して20年経っても私たちはみな「総統」と呼びかけた。いつか来ることは分かっていたが、この世にいる李登輝に「総統」と呼びかける最期のときが来たことがどこか現実的でないような気がしていた。今思い出してみても何を言ったのかあまりはっきり覚えていない。ただ何度も何度も「ありがとうございました」と感謝の言葉を繰り返していたことだけを覚えている。
私は毎週のように、忙しいときは連日のように、李登輝と顔を合わせていた。仕えるようになって数年が経っても、毎回李登輝に会うごとに風圧のようなものを感じた。最初は緊張しているのかとも思ったが、この感覚は結局、最後まで消えることはなかった。
ご自宅に行き、リビングのドアを開けると正面に李登輝の座るソファがある。そこに李登輝が座っている姿を見るだけで、圧倒されるような風圧を感じる。淡水の事務所では私の部屋と李登輝の執務室は隣どうしで、いつもドアは開け放たれている。私たちが「秘密の通路」と呼ぶ、関係者以外にはあまり知られていないドアを抜けて李登輝が入ってくると、やはり隣の部屋から風が吹き込んでくるような感覚に襲われるのが常だった。最期のお別れのとき、ベッドに横たわる李登輝を前にしてもやはり風圧を感じた。最期の瞬間まで李登輝は「総統」だったし、私にとっては大好きな「ラオパン」だった。
不思議なことがあった。李登輝が亡くなった夜のことだ。
李登輝が亡くなったのは午後7時24分(台湾時間)だが、私はちょうど淡水の事務所を出たところだった。事務所が入るビルの一階に降りて歩き始めてから、背広の上着を置いてきたことに気付いた。普段であれば、自宅には他の背広もあるためほとんど気にしない。また、事務所は30階なので、いったん戻るだけで結構な時間がかかるということもある。
絶対に事務所に取りに戻らなければならないという必要はないのだが、なぜかその時の私は事務所に戻った。そして、これまたなぜか、「総統の執務室の写真でも撮っておこうか」と電気をつけて何枚か執務室の写真を撮ったのである。もうすぐこの執務室も主を失うことになる、と無意識に考えたのかもしれない。そして、再び階下に降り、歩いている途中に受けた電話が、その「知らせ」だった。
あの日は台湾の東側を進む台風の影響もあって、真夏にしては珍しく強い風が吹いていた。私は「千の風になって」を思い出した。李登輝夫妻がこよなく愛する曲だ。キリスト教を信仰していた李登輝は「仏教でいう輪廻転生を私は信じない。来世などと言わずに、いまの人生をいかに意義あるものにするかが重要なんだ」と説いていた。だから、だいぶ前から「私たちは死んだら『千の風』になるんだ」と言っていた。
いま振り返って思う。あのとき、李登輝は千の風になって淡水の事務所へ戻ってきたんだろう、と。総統を退任して以来20年、李登輝は生まれ故郷の三芝に近い淡水に置いたこの事務所を、活動拠点にしてきた。千の風になった李登輝は、その執務室を最後にちょっと見てみようか、と思ったにちがいない。けれども、電気が消えていて見えないから私を呼び戻して明るくさせたのだろう、と。
李登輝に仕えた長い年月のあいだ、私は何度も李登輝に呼び出された。週末だったことも夜だったことも早朝だったこともある。でも私は李登輝に呼び出されるのが大好きだった。李登輝のために仕事をし、李登輝の仕事を手伝えることがうれしかった。事務所に戻り、執務室の明かりをつける「仕事」は、李登輝の私への最後の「呼び出し」だったのだろうと信じている。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。
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