2024年11月22日(金)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2020年9月29日

李登輝元総統のもとで8年間、日本人秘書として仕えてきた早川友久さんが、尽きせぬその思いを綴ります。

写真:ロイター/アフロ


 「その日」はあっけなくやって来た。

 2020年7月30日午後7時24分(台湾時間)、李登輝がこの世を去った。

 2月に誤嚥性の肺炎で入院して以来、遠からずこの日が来るのは分かっていたし、覚悟していた。生命の兆候を示す様々な数値であるバイタルサインが、ゆっくりではあるが少しずつ低下していたからだ。ご家族と、李登輝に仕えるほんの一部の人間だけで「新しい年は迎えられないかもしれない」という情報も共有されていた。

 李登輝が亡くなる前々日、深夜にも差し掛かろうかという時間帯に、私のスマートフォンが鳴り止まなくなった。メディアの一部から「李登輝危篤」の情報が伝わり始め、それを受けて台湾に支局を置く日本メディアから次々と問い合わせが入ったからだ。すでに李登輝が入院する病院に到着してから電話をしてきた支局長もいた。確かに、その数日前から事務所内では「夜中でも電話に出られるようにしておけ」という指示は出ていたので、この日になって情報がどこかから漏れ出したのだろうと推測した。

全力で尽くしてきた8年間の終わり

 手前味噌だが、私は8年間、自分なりに全力を尽くして李登輝に仕えてきたという自負がある。前任者から引き継いだこと、事務所内でのやり方を尊重しつつも、どうすれば李登輝がより仕事をしやすくなるか、より多くの情報を届けられるか、といったことを常に考えて改善してきた。

 些細なことかもしれないが、90歳を過ぎてこれまでよりもまた視力が落ちてきた李登輝のために、講演原稿のフォントをさらに大きくしたり、読みやすいように行間を広げるようにもした。これは原稿を読む李登輝が目を細め、かがみがちになるのを観察していたから分かったもので、李登輝に指示されて変更したことではない。

 晩餐会に李登輝が招待され、主催者が私も食事できるようにと別テーブルに席を用意してくれても、好意はありがたいながら、李登輝の近くを離れることはしなかった。警護のSPも近くにいるが、李登輝が賓客と会話をするなかで「あの資料を持っているか」「あれはいつのことだったかな」となったときに対応できるのは私しかいないからだ。

 著書に署名を求められたり、記念撮影を頼まれたりすることも必ずある。本に相手の名前を書くために名刺をいただいても、字が小さすぎて李登輝には見にくい。そこで私がまずモレスキンのノートに大きく書いて李登輝に見せるとともに、李登輝が愛用する太さのマジックを手渡す。写真を撮るときには「元総統」としてきちんと撮っていただけるよう服装のシワやボタンまで確認する。ときには少し乱れた髪にクシを通すこともあった。

 2015年の早慶新春交流会の席だった。台湾在住の早稲田大学と慶應義塾大学の校友や留学生が一同に会して交流するイベントが毎年春に行われており、この年は李登輝がゲストスピーカーとして招かれていた。ちなみに、李登輝がゲストに呼ばれたのは過去3回あったが、毎回申し込みが殺到し、席があっという間に埋まってしまったという。

 李登輝は「台湾の主体性を確立する道」をテーマに講演し、質疑応答に移った。ただ、会場だった国賓大飯店の会場は広く、マイクを使っていても質問の声が聞き取りづらい。私が耳元で逐一質問内容を補完したのだが、会が終わった後に参加者から言われた。

 「早川さん、まるで『ささやき女将』みたいでしたね」

 「ささやき女将」とは、2007年に食品偽装問題が発覚した高級料亭の謝罪会見で、息子である社長を助けようと、耳元でささやく声がマイクに拾われて放送されてしまった母の女将のこと、といえば皆さん思い出されるだろうか。

 友人でもある彼は、李登輝のすぐそばに立ち、耳元で質問内容を説明する私が、まるで「ささやき女将」のようだ、と言ったのである。周りはドッと笑ったが、あとになって反芻して考えてみると私はそう言われたことがうれしかった。


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