2024年4月28日(日)

Wedge REPORT

2021年2月12日

(Alikaj2582/GETTYIMAGES)

 

 まもなく、東日本大震災と東電福島第一原発事故から10年を迎えます。

 原発事故は、その災害規模に比例した、極めて大きな社会不安を巻き起こしました。

 周知のように、古今東西、歴史を見ても災厄には社会不安、敢えて古い言い回しをすれば「人心の乱れ」が付き物で、災害本体に勝るとも劣らない深刻な被害をもたらしてきました。たとえば関東大震災では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などというデマのために、罪なき多くの被災者が、冤罪をかぶせられての私刑によって命を失いました。この事件は義務教育の歴史教科書にも載っており、現代社会でも多くの人が知るところになっています。

  ならば同じく大震災と呼ばれ、原発事故までも伴った東日本大震災の社会不安が何を引き起こしたのか。これだけの大災害で、他の歴史的災害で起こったようなことが何もなかったはずがないのです。しかしそれはどこに詳細に記録され、将来教科書に載せられる目途はいつ立つのでしょうか。

  改めてそう考えたとき、原発事故におけるこうした問題が災害規模に見合わない程に軽視され、具体的な記録も不自然に少ないことに初めて気付く方もいるでしょう。また、そうなった要因に対する分析も多くは見られてきませんでした。今回は、そこに踏み込むため、私自身が経験してきたことからの主観を敢えて交えながらの考察を記します。

  突然ですが、みなさんは「人殺し」と呼ばれたことがあるでしょうか。私には、あります。

みなさんは「人殺し」と呼ばれたことがあるでしょうか

 しかし、それは私だけではありません。原発事故後の福島で暮らしてきた人間には、多かれ少なかれ、それに類した言葉を陰に日向にぶつけられてきました。

 「福島の農家はテロリストと同じ」「地産地消で被曝して死ね」「福島で凄まじい事態が発生!妊婦15人のうち12人が奇形児を出産しています!」「ガンが増える」「被曝の影響は遺伝する」「フクシマの人とは結婚できない」──。具体的に挙げればキリがありません。

 もちろんこれらは全て、事実無根のデマと誹謗中傷です。しかも、これらの言説を広めてきた人の中には大学教授や文化人などのいわゆる知識人層や、反原発や反差別を訴える団体とその支持者たち、ジャーナリストや伝統宗教関係者なども多くみられました。こうした問題を一つひとつ具体的に調査・検証して頂ければ明白ですが、むしろ、「そうした人々こそが加害の中心的役割を果たしていた」とさえ言えます。なぜこのような事態が起こってしまったのか。

  あえて端的に言いましょう。原発事故という不幸は、一部の人たちにとっては紛れもなく、政治活動、あるいは商売などにおける千載一遇の「好機」でもあったのです。

 これは現在の新型コロナウイルス禍にも共通する点がありますが、私が震災直後に無邪気に信じすがっていた、「国難とも呼べる災害や不幸のときには、さすがに普段対立している人たちも一致団結して協力し合うだろう」だとか「弱者の味方をしてくださっている方々は、きっと被災地に寄り添い、福島に暮らす私たちを助けてくれるだろう」という考えは、残念ながら幻想だったと思い知らされた10年間でした。現実は被災地を助けるどころか社会不安をますます煽り、攻撃し、被害に追い打ちをかけてくる人も少なくありませんでした。

 その象徴の1つが、特に原発事故後初期に多用された、カタカナ表記の「フクシマ」でした。詳しくは先行研究でもある山梨学院大学法学部政治行政学科の小菅信子教授の『放射能とナショナリズム』(彩流社)という本に記されていますが、これは福島が外部から一方的に押し付けられた「被害者としての記号化であり、負の烙印(スティグマ)」でした。

  また、それは同時に原発事故前に存在した「原発安全神話」へのアンチテーゼとして生まれた虚構であり、新たな「神話」であったとも言えます。

 本来、原発の「安全神話」が崩壊した後に必要であったのは、より現実に向き合ったリスク評価と管理であり、いわば「神話の時代」を終わらせることであったはずでした。

しかし「安全神話」も含めて原発に否定的であった人々の一部は、安全神話と対を為す自分達のための「神話」を新たに創造することを選んでしまったのです。原発事故後に朝日新聞で新しく連載されたシリーズのタイトルが「プロメテウスの罠」と「核の神話」であったこと、それが業界内で称賛され新聞協会賞などを得たことなどは、象徴的だったと言えるでしょう。

 「フクシマ」神話とは、福島を「自分達の日常とかけ離れた異質な存在」であるかのように規定・錯覚させることで、事故や放射能不安を対岸の火事、他人事として切り離し安心を得ようとする試みであったとともに、福島とそこに暮らす人々が自分達と同じ故国の人間、同じ生活者であることを忘れさせ、より便利に、より冷酷に、より純粋な被害者性を政治的な文脈、あるいは商売や娯楽の上で搾取・消費しやすくする性質のものでした。

10年間、「苦戦」を強いられてきた科学

 原発事故では幸いにして「フクシマ」神話が予言したような放射線被曝そのものでの健康被害は生じなかった一方、別の要因で甚大な被害と犠牲者が生まれました。

 例えば 福島県における震災関連死2313人(2020年9月30日時点)は、津波など震災を直接の原因とする死者1607人(2014年2月10日の警察庁集計)を大幅に上回っています。これは宮城県の929人、岩手県の464人と比べても突出しており、「命を守るために避難したことが逆に死者を増やした」可能性を強く示唆させるものです。また、今も続く福島の子供に対する甲状腺検査もこれに近い状況で、過剰診断問題によって子供たちに大きな不利益を発生させているとの懸念が広がっています。

 2021年2月11日付論座「福島の甲状腺検査の倫理的問題を問う(第一部)『0~18歳まで全員検査』が引き起こしたこと」

  「放射能」のリスクに対し実態以上の恐怖を煽ることによって、風評や差別の問題も発生しました。

 2017年2月7日付産経新聞「『放射能がうつる』いわれなき悪口で傷つけ…相次ぐ原発避難いじめ 差別と偏見許さぬ社会に」 

  これらは氷山の一角であり、原発事故の深刻な被害は多岐にわたりました。真に被災者の命と健康を護ろうとするならば向き合わなければならない現実であり、仮に原発反対を訴えようとするならば、その論拠としても十分過ぎたと言えるでしょう。それでも、「フクシマ」神話はそうした被害を無視し、あくまでもセンセーショナルな放射線被害の発生ばかりを執拗に求め続けました。なぜならば、「フクシマ」にとっては福島や被災者がどうなろうと対岸の火事であり、むしろ描かれる「被害」がよりセンセーショナルで悲惨であるほどに、政治的、あるいは商売や娯楽上での利用価値が高まったからです。

   それらに乗った一部の言論人たちは、その後福島での放射線リスクが科学的な知見で否定されるたび、すなわち「フクシマ」神話の存続が脅かされるたびに、「科学とは日に日に進化するもので、正解は一つではなく、万能なものではありません。不確実なものであり、最新の研究でも、ひっくり返される恐れのあるものです」などの理屈をつけて、「慎重になるべきだ」といった意見に説得力を持たせてようとしてきました。

  確かに科学とは「実験や観察の結果によって否定される可能性を持つもの」である一方、それらの科学を集合させた「科学的知見」とは長年にわたる数多くの実験や観察、考察に十分に耐えて証明されてきたものになります。

  そうして積み重ねられた科学的知見を否定するためには、同様に科学的な手段で積み重ねた、それを覆すに足る質と量の根拠が必要です。それ無くしての「反論」では、実は風評を温存させるだけの不当な言いがかりや詭弁にもなりかねません。しかしこの10年間、科学はそれらによって苦戦を強いられてきたのが現実です。

  ここで、根本的に考えなければならないことがあります。そのような言いがかりや詭弁が、なぜプロフェッショナル集団が積み重ねてきた知見と「両論併記」されて対等に扱われるに留まらず、まるで拝聴されるべき「真実」であるかように社会に喧伝され続けてしまったのか。そして「加害者」になった側の中心に、本来は「弱者の味方」を標榜していたはずの言論人や政治家、知識人、アート関係者、そしてジャーナリストが多く含まれてしまったのか。

  もちろん、ここでは言論や表現の自由や彼らの功績の全てを否定する意図はありません。しかし、「人殺し」呼ばわりをはじめとして福島の人たちに攻撃が向かったり、社会不安の被害が増加・温存されたりするという現象が実際に起こった以上は、それらを「なかったこと」にするわけにもいきません。後世のためにも、それを行った人々が内部に抱えてきた「バグ」や「エラー」とでも呼ぶべき原因を分析・改善し、再発を防止していく必要があるでしょう。

 まずは、この災害で彼らが陥ってしまった過ち、エラーが生まれた背景にある一因を大きく3つ考察してみます。

① 人の思惑が及ばない自然科学的事実を軽視し、自分達が信じたい「真実」を上位に据える自由を行使した(≒議論や対応の前提となる客観的事実や情報が正しく共有できない)

② 国民の安全と健全な民主主義を護る手段としての「権力の監視」自体が目的化し、逆に害を及ぼした(≒復興も含めた様々な政策への執拗な妨害と国益の損失)

③ 自らも別の巨大権力であるという自覚無きまま暴走し、恣意的に弱者を選別したり弾圧したりした(≒権力に抵抗しているつもりで被災地・被災者の利益や人権を攻撃)

 こうしたエラーと向き合い、これから我々はどう言論の場を作っていくべきなのか。これは本来、この10年の間に大きな問題として詳細な記録を作成して後世に伝え、議論しなければならなかった課題と言えるでしょう。

(本記事は2月末に発売の書籍『東電福島原発事故 自己調査報告 深層証言&復興提言:2011+10』(細野豪志・開沼博 著、徳間書店) に掲載予定の文を編集・再構成したものです。全文は書籍に掲載となります)

  
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