南海トラフ巨大地震が起きた際、高知県黒潮町には、34㍍の津波が押し寄せることが予想されている。東日本大震災から1年後の2012年3月、内閣府からの発表で黒潮町は突然「日本一高い津波が来る」町に指定された。当時、町の情報防災課長だった松本敏郎町長は「住民から問い合わせの電話が殺到するはずと待ち構えたが、予想に反して電話が鳴ることはなかった」という。
黒潮町に避難できる高層建物はなく、周囲の山に避難するにしても、当初は最短2分で津波が到達すると報道された。この現実を前にして、町民の間には「どうしようもない」という諦めムードが漂っていたからだ。
だからといって無策ではいられない。最初に手をつけたのは、防災の「思想創り」だった。黒潮町は「カツオの一本釣り」が盛んなことで知られている。カツオを追って太平洋岸を北上した黒潮町の一本釣り漁船がカツオを卸す港は、日本一の水揚げ量を誇る宮城県気仙沼港だ。これが縁となり黒潮町と気仙沼市では、縁戚関係にある人が少なくない。東日本大震災直後にも黒潮町の職員が救援と安否確認のため、気仙沼市に入っていた。
松本町長は12年4月、気仙沼を拠点にして岩手県田老町から宮城県名取市まで現場を見て回った。「宮城県の野蒜(のびる)町に入ったとき、黒潮町の風景と重なって見えて身につまされた」という。
そこから生まれた思想が「逃げる人づくり(あきらめない)」だった。この思想を住民と共有するため、1カ月間で156カ所、4634人とタウンミーティングを行い、防災担当だけでは人手が足りないことから、役場の全職員を教育して防災担当を兼務することとした。
さらに、高齢化率が40%を超える町内で避難弱者を救うため、一戸一戸の家族構成、自力避難の可否、避難方法などを記す「津波避難カルテ」作りを行った。助け合うためには集落単位だと戸数が大きすぎるため、町内61集落を463班に分けた。この後、5年間で行った説明会は1000回を超えた。町の努力が実り次第に住民の意識も変化していった。松本町長の部屋には、ある女性の短歌が飾ってある。
大津波 来たらば共に死んでやる 今日も息が言う 足萎え吾に 香代子
この命 落としはせぬと足萎えの 我は行きたり 避難訓練 香代子
前者が12年11月、後者が14年11月に詠まれたものだ。短歌からは諦観と悲壮感から、生きのびようとする姿勢に変わったことが分かる。16年11月25日には、世界中の高校生が集まって「『世界津波の日』高校生サミットin黒潮」が開催された。このとき採択された「黒潮宣言」の中には「自然の恵みを享受し、時に災害をもたらす自然の二面性を理解しながら、その脅威に臆することなく、自然を愛し、自然と共に生きていきます」とある。松本町長は、「これこそ教育の賜物」と目頭を熱くする。「防災を声高に言うと、一歩間違えれば自分の町が危険だということを示すことになる。しかし、そう考えるのではなく、自然の〝二面性〟をきちんと理解してくれたことが嬉しかった」という。