老華僑・新華僑・日本人
次いで日中戦争の余波が襲ってくる。
1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。戦線が拡大し、急速に泥沼化した。選択を迫られた横浜華僑は、度重なる協議の末に、中華民国政府ではなく日本が北京に樹立した傀儡政府を支持することに決めた。
そのせいか、続く太平洋戦争(41~45年)でも、「敵性国民」と見做されなかった。居住や移動の制限、憲兵による厳しい監視や取り調べはあったが、中華街で引き続き生活できた。
しかし45年の5月29日の横浜大空襲で、中華街はことごとく灰燼に帰してしまう。関東大震災以来2度目の壊滅的な惨事だった。
戦後、横浜の中心地にありながら米軍の接収を免れた中華街は、今度は「戦勝国民」として食糧配給が優遇され、いち早く商売を再開した。
華僑の心の支えは47年に3度目の再建を果たした関帝廟。『三国志』の英雄・関羽は、信義に篤く算盤にも長けていたため、幕末の1862年から地区で祀られてきたのだ。
1955年、中華街大通りの人口に極彩色の善隣門が完成し、横浜中華街はエキゾチックな「料理の町」へと大きく舵を切った。
中華人民共和国の成立(49年)により「二つの祖国」問題も生じたが、日中国交回復(72年)やパンダブーム、バブル景気もあり、中華街を目指す観光客は年々増加した。
企画展の図録のエピローグによると、近年は世代交代が進み、福建省出身の「新華僑」の台頭もあってバブル当時とは住民構成が変化したという。またコロナ禍の直撃で「立ち行かなくなる店舗も増えている」と。
しかし、「老華僑・新華僑・日本人」など価値観を異にする人々の間で新たな連帯も生じつつあり、「臥薪嘗胆のさなかにある」らしい。
私が以前取材したことのある元横浜華僑総会会長の曽徳深さん(81歳)は、図録のインタビューの中でこう語っていた。
「新型コロナが横浜中華街に与えた影響は時がたたないとわからないが、人が命をつないで生きていれば何とかなると思う。物質的なものは失われても、人が生きていれば思いをつなぐことができる。(5歳の時に危うく命拾いをした私自身の)空襲の体験からもそう考えている」
幕末以来160年間、幾度となく存亡の危機に見舞われながら、独自性を保ち、したたかに生き残ってきた横浜中華街とその住民。1年かそこらの「自粛疲れ」で音を上げそうな我々が、見習う点も少なくなさそうだ。
前夜、中華街の行きつけの台湾料理店で夕食を取った。アルコール類は提供禁止だったが、注文した料理は味も分量も値段もコロナ禍の前と変わりがなかった。
店内に別の日本人客が一組だけ居た。
「台湾の都市ってさ、信号が赤でも人がドンドン渡るから恐いよね」
男性の方がさかんに店の人に話しかける。
「そうですね、日本の人に比べれば」
「そう!違うのよ。何年か前に行ったときの話だけどね。あ、じゃウーロン茶、もう一杯!」
「はい、承知しました」
店の女性は笑顔を絶やさず、終始丁寧に応対していた。申し分のない「平素心」だった。
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