2024年11月24日(日)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2021年6月12日

(kanzilyou/gettyimages)

 五月の小雨の中華街に来ていた。

 ホテルを出たところが山下町の交番で、左の道路がメインロードの中華街大通り、右が開港道。普段なら中華街大通りは人波で溢れ、開港道も押し出された集団で賑わっているはずだが、今は閑散としている。

 観光客の姿がないわけではない。が、非常に少ない。その代わり目につくのは、買い物袋を下げて建物に消える人や、車から荷物を出し入れする居住者らしい人々。

 世界に冠たる観光地・横浜中華街も、コロナ禍の痛手はかなり深刻な様子だった。

 同じ横浜市中区の横浜ユーラシア文化館で企画展「横浜中華街160年の軌跡 この街がふるさとだから。」を開催していて、前日に見学した。

 1858年の日米修好通商条約に基づき、対外貿易港として神奈川(横浜)が開港されたのは翌59年7月1日のことだった。

 開港と同時に横浜には、欧米人伴われて多数の中国人(清国人)がやって来た。

 というのも、日本人との取り引きに漢字で意思疎通できる中国人の仲介者(買弁)がぜひ必要だったからだ。外国人居留地で生活するためにも、西洋建築、西洋家具作り、洋裁などの職人として、日本人より早く欧米と接触した中国人の知恵や技術が要求された。

 その意味で日本の華僑は他国と性格が異なっていた。東南アジアやアメリカでは、農場開発や鉱山、鉄道などの労働者として大量の中国移民が送り出され、そこから社会を這い上がったのだが、日本の場合は当初から商人や使用人、専門技術者の集団だったのだ。

 主に広東や浙江から来日した中国人は、欧米商館が立ち並ぶ本町通りの後方、横浜新田と呼ばれる埋め立て地に集中的に居住した。

 企画展に展示された中華街の一番古い写真は、74年(明治7年)撮影の山下居留地165番地付近。つまり、拙稿冒頭に私が立って眺めた山下町交番を挟むV字道路の風景だ。

 セピア色の町並の看板は両替商、靴屋、製本店、写真館。そのすべてが中国人経営である。

 当時、横浜在住中国人約1000人のほぼ半分が中華街地区に住んでいた。そして総人口が3000人を越えた93年(明治26年)になっても、横浜華僑の最多の職業は貿易商(23軒)で、料理店は3軒しかなかった。

 現在とは街の雰囲気がかなり違っていたのだ。やがて、波乱の時代が到来する。

 最初の大波は94、95年の日清戦争。国交断絶により、在日中国人の約3分の2が帰国した。しかし横浜では日本人との婚姻を通じてすでに生活基盤を横浜に置いていた者も多く、横浜の華僑らは中国の各開港場に戦時居住不適格者(アヘン吸引者、賭博常習者など)の横浜再来を禁止する布告を配布し、独自の日本社会との摩擦回避策を取った。

 次の波濤は、1923年(大正12年)の関東大震災である。古い煉瓦造り建物が多かった中華街は壊滅的な被害を受けた。

 震災前に6000人近くに膨らんでいた人口のうち、死者・行方不明者は1700名に及んだ。残りの大半は神戸などに避難したが、自警団による朝鮮人虐殺事件が起こり、横浜の中国人も犠牲になった。

 翌年、人口400人強から復興が始まった。

 震災前、横浜華僑の職種は100を超えるほど多彩だったが、居留地撤廃(1899年)や日本人の欧米技術習得などもあり、経済活動が震災後には、「三把刀(3つの刀を使う職業。中華料理、理髪、洋裁)」などの華僑の優位性が発揮できる職種に狭まった。

 企画展では、2011年に閉店した老舗料理店〈安楽園〉の円卓・食器類の展示もあった。広東省出身の創業者が、長年営んでいた貿易商から業種転換したのも震災後のことだ。


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