14日、本国政府からの伝達で翌15日正午に終戦の詔勅(玉音放送)がラジオ放送されることを知った総督府では、ナンバー2の遠藤柳作政務総監がある男に使いを出して、15日早朝に官邸で会談することを申し入れた。
その男とは独立運動家にして共産主義者であり、朝鮮人からの人望が厚い呂運亨(ヨ・ウニョン)であった。遠藤は本日正午に日本が敗戦することを伝え、朝鮮半島の治安維持を朝鮮人の手に託すことを提案すると、秘密裏に短波放送を傍受して日本降伏の事実を把握していた呂運亨は、これを承諾した。
呂運亨は遠藤に政治犯の釈放などを求めて了承されると、総督府を後にしたその足で自らを委員長とする建国準備委員会を結成し、呂運亨に付き従い会談に同席した鄭佰(チョン・ベク)は16日、日本統治下で霧散していた朝鮮共産党を再建した。
呂運亨と鄭佰のこの素早い動きは、ソ連軍のソウル進駐後の政局を主導したかったことを意味する。
幻の社会主義国「朝鮮人民共和国」
しかし、呂運亨の思惑は大きく外れることになる。連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥は9月2日、朝鮮半島に所在する日本軍に対して、38度以南は米軍に、以北はソ連軍に降伏するように命じた。これによって呂運亨が期待したソ連軍のソウル進駐は消え失せた。
建国準備委員会は当初、右派民族主義者も含めた組織であったが、右派民族主義者が中国・重慶で活動する大韓民国臨時政府を支持して離脱したため、共産主義者の牙城と化す。
そして、呂運亨は9月6日、ソウル市内に500人ほどの建国準備委員会代議員を集めて全国人民代表大会を開催、朝鮮人民共和国の建国を宣言して、親日協力者など「民族反逆者」の土地没収などの施政方針を発表するに至る。発表された閣僚名簿には後に韓国の初代大統領となる李承晩が主席、呂運亨が副主席として名を連ね、北朝鮮の最高指導者となる金日成も国会議員にあたる人民委員に選出された。
ここまでを読んでお気づきだろうが、朝鮮半島の解放から朝鮮人民共和国の〝建国〟までの間、〝解放軍〟であるはずの米軍は朝鮮半島に上陸していない。米軍がソウルに進駐したのは、朝鮮人民共和国建国から2日後の9月9日である。
沖縄戦で消耗したわずか3個師団で朝鮮半島南部を占領・統治しなければならない米軍は当初、総督府の統治機構を活用した間接統治を考えていたが、間接統治に対する朝鮮人の反発が強かったことと、共産主義者が跋扈していた状況から、軍政を敷く直接統治に舵を切った。
その後、朝鮮人民共和国は米軍政府に対して主権論争を挑んだが、10月には米軍政府によって事実上解体されてしまう。一方でソ連軍に占領された朝鮮半島北部では、朝鮮人民共和国の地方行政機構である人民委員会がそのまま継承され、現在に至っている。
保革対立を生んだ「26日間の独立」
いま韓国の左翼有識者は、8月15日の日本敗戦から9月9日の米軍進駐までを「26日間の独立」と呼び悲憤している。そこには、朝鮮人が日本と米国、ソ連の思惑とは別に自らの意思で独立した国家を営むことができたのは、たった26日間しかなかったというルサンチマンが根底にある。
韓国左翼の心情を代弁すると、こうなるだろう。
韓国よりも北朝鮮よりも前に先達が朝鮮人民共和国という国家を建国したが、米軍の介入によって崩壊させられた。そして、南側では海外に逃げ出していた上に朝鮮人民共和国の主席就任を拒否した李承晩が米軍の支持を得て韓国を建国し、北側ではそもそも朝鮮共産党の地方組織の長でしかなかった金日成が後継組織である朝鮮労働党のトップとなり北朝鮮を建国した。