2024年4月16日(火)

近現代史ブックレビュー

2022年6月18日

ソ連によるフィンランド侵攻とは

 それではソ連によるフィンランド侵略はどのように行われたか。1939年10月、レーニングラードの安全保障と称してソ連はフィンランドに対して領土交換を提唱した。ソ連が要求したのは安全保障上の要地であり、見返りは重要性の乏しい地域であった。

 フィンランドは交渉したが、結局交渉は11月13日に決裂した。フィンランド軍は10月中に動員をかけていたが、戦争を予期せず21日には一部動員を解除していた。「ソ連が戦争を仕掛けるとはほとんどだれも考えなかった。軍事専門家たちは、冬季の対フィンランド作戦はおそらくソ連の利益にならないと主張した。もちろんその通りなので、スターリンが利益にならないようなへまをやるとは予想できなかった(マックス・ヤコブソン、北詰洋一訳『フィンランドの知恵』サイマル出版会、35頁)」。

 26日、ソ連のモロトフ外相は駐ソ・フィンランド公使を呼び、フィンランド政府に宛てた覚書を手交した。それはカレリア国境マイニラでフィンランド軍が発砲しソ連兵が死亡、フィンランド兵がソ連領に侵入したと主張していた。今日、ソ連軍が先に発砲したことは明らかになっている。

 フィンランドは、当時当該地域に発砲できる部隊はいなかったと反論、協議する用意があることなどを伝えたが、4日後の11月30日朝、ソ連陸軍がカレリア地峡の国境線を越えてフィンランド領内に侵攻、同時にソ連空軍機がヘルシンキを突然空爆した。こうしてソ連フィンランド戦争が始まる。32年にソ連とフィンランドの間には不可侵条約が締結されていたのだがこれは平然と破棄された。

 開戦初期の12月2日に占領した国境沿いの町テリヨキに、亡命していた共産党政治局員クーシネンを大統領(首相)とするフィンランド民主共和国が樹立されたとモスクワ放送は発表した。クーシネンはフィンランド国民に解放のアジテーションをし、ソ連政府にフィンランド解放のための正式な援助要請を行った。ソ連政府はクーシネン政府のみをフィンランドの正統政府と認めそのほかの政府とは交渉を持たないと宣言した。

 続けてソ連の要求をすべて認めた相互援助条約が結ばれている。ソ連の狙いがフィンランドの併合にあったと見られる所以である。「すべては茶番であった。クーシネンはモスクワにいて、おそらくテリヨキに行ったことすらなかった」(『冬戦争』29頁)。

 この後、ソ連はさらに、このフィンランド民主共和国を通じてソ連の攻撃はフィンランドの労働者階級を守るためだと訴えた。ソ連はフィンランドとの戦争を、フィンランドの「反動的な金権政府」に対して成立した「民主共和国」を援助する「解放戦争」という規定を与えようとしていたと見られるのである。10月頃にフィンランド国内の共産党地下組織から「ソ連軍に呼応した自発的革命の可能性を保証した報告を受けたうえで、軍事行動への踏切りが決定されたらしい」のである(百瀬宏「ソ連の小国政策―フィンランドを事例として」平井友義編『ソ連対外政策の諸様相・国際研究叢書25』日本国際問題研究所、11頁)。

 しかし、この試みは失敗する。フィンランド国民はその抵抗によってソ連軍に解放軍のイメージを与えることを許さなかったし、クーシネンの「民主共和国」の綱領中の「白色フィンランド」という表現は20年前のものであり現実のフィンランド共和国の実態とはかけ離れており、綱領に掲げた土地改革・8時間労働制の実施などはすでに実現していたからである(百瀬、250頁)。

 さらに、フィンランド共産党指導者による、ソ連政府・コミンテルン指導部に対する公然たる反逆事件も起きる。すなわち、フィンランド共産党幹部の一人トウオミネンは『フィンランドの労働者同志とゲオルグ・ディミトロフ(コミンテルン書記長)に宛てた私の手紙』というタイトルの小冊子を刊行し「ソ連の対フィンランド攻撃は、民族自決の原則・平和政策にもとり、ソ連国民と全世界の労働者にたいする犯罪であるとして糾弾する」という態度を表明したのだった(百瀬、253頁)。

 こうして、フィンランド共産党地下組織の報告に基づき、ソ連軍の行動により呼応した革命が起こり、クーシネン政権が支持されるというモスクワの指導部の構想は破綻したのであった。「現実には、フィンランド国内には目立った反抗らしい動きはみられず、国民は対ソ抵抗に結集したのであった」(百瀬宏『北欧現代史』山川出版、252頁)。

 しかし、彼らは簡単には諦めなかった。この戦争の結果、共産党政治局員クーシネンのフィンランド民主共和国は結果を出せなかったが、戦争後の40年5月に「ソ連・フィンランド友好協会」が結成され、フィンランド共産党はこの大衆団体を通して「大衆示威の練度を高めようとする一方、武装蜂起に備えた党独自の軍事組織の強化を図って」フィンランドの公安警察との軋轢を招くことになるのである(百瀬宏「ソ連の小国政策―フィンランドを事例として」12頁)。武力による「解放」・親ソ政権樹立という構想を一貫して保持していることが理解されよう。

世界的な「フィンランド」支援の動き

 さて、次にソ連・フィンランド戦争をめぐる世界の動きを見て行くことにしよう。ソ連フィンランド戦争が起きると、英・米・仏・「イタリア」などの世界では熱狂的なフィンランド支援の動きが起きた。

 「ルーズベルト大統領は『フィンランドの強奪』と述べ、英・チャーチルはソ連の侵略を『高潔な人びとへの卑劣な犯罪』と呼んだ。フランス政府はソ連の通商代表部の閉鎖を命じた。イタリアは駐ソ大使をモスクワから召還した。ウルグアイからの激励の書簡はフィンランド議会で厳粛に朗読された」のだった(マックス・ヤコブソン、35頁)。

 義勇兵はスウェーデン8000人、デンマーク1000人、ノルウェー700人、ハンガリー450人、米国350人、英国230人、イタリア150人などで、そのほかカナダ・オーストラリア・アルゼンチンなど多くの国から申し込みがあった。また、英国から戦闘機42機・爆撃機24機、フランスから戦闘機30機をはじめ各国から大量の砲・銃・弾薬・装備品の支援が行われたのである(斎木、258、291~5頁)。

 そしてそうした世界の世論を典型的に表したのが、12月14日ソ連が国際連盟から追放処分を受けたことであった。

 12月3日、国際連盟においてフィンランド代表ホルスティはソ連の侵略行為を提訴した。これに対し、ソ連はこれを拒否し、フィンランドと戦争状態はなくソ連と友好条約を締結したフィンランド民主共和国と平和な関係を維持していると回答したのだった。国際連盟総会はソ連欠席で開かれ、13カ国からなる調査委員会が設置された。 

 調査委員会は、ソ連のフィンランドに対する行動を非難し、〝全連盟加盟国はフィンランドへの物質的人道的援助を実施しフィンランドの抵抗を減退させるいかなる行動も差し控えること、代表派遣を拒否したことによりソ連は自ら国際連盟規約の外に自身を置いたことになる〟とした決議を総会に付託した。こうして、12月14日、国際連盟総会はこの委員会決議を採用、連盟理事会は国際連盟規約第16条によってソ連の追放を決定したのである(百瀬、260~263頁)。

 こうした事態を背景に12月19日、英仏間の最高戦争会議において、「フィンランドに対してあらゆる可能な援助を与え、またスウェーデンとノルウェーに対して外交活動を行なうことの重要性」が確認された。その背後には,フランスのダラディエ首相によるフィンランド救援のためドイツの戦争遂行上死活の意味を持つスウェーデンの鉄鉱生産地占拠を目指す英仏側による先制攻撃の提案があった(百瀬、266)。

 以後、この件は曲折を経て、40年2月5日英仏首脳の参加した最高戦争会議において、スウェーデンの鉄鉱生産地奪取を目的とするノルウェー西岸への上陸作戦のため英国軍を主力とする遠征軍を派遣することが決められた。この遠征軍は10万人規模とされたが、それにはスウェーデン・ノルウェー政府の同意が必要であった。しかし、国民にはフィンランド支持も少なくなく多くの義勇兵も出していたが、ソ連・ドイツから警告を受けた両政府は中立的地位破棄の危険を冒すことを恐れ英仏へ好意的立場をとることはできなかった。

 一方、フランスのダラディエ首相が参謀本部に黒海沿岸のソ連油田地帯の破壊工作の検討を命じたところ、40年2月22日参謀本部はこの地域の爆撃で独ソを屈服させうると答申した。独ソを同程度の敵と見なし、ドイツを打倒するため資源提供者もしくは弱い方のパートナーソ連を叩こうとしたのである。

 米国では熱狂的フィンランド支持の声が起こり、反ソ熱が猛烈に盛り上がった。それは「異常」とまで言われるほどであった。ただ、孤立主義の強い同国において、そこには微妙なところがあり、結局実質的にはブラウン法案というフィンランドへの借款を導いた法案を成立させた程度であった。しかし、英仏のフィンランド援助計画は米国世論の盛り上がりをもとに米国を孤立主義から脱却させることを期したものであり、やはり両国の背後に米国があったことも否定できないと見られている。

 ファシズム・イタリアもフィンランド支援に熱心であった。ソ連・フィンランド戦争が起きるとローマでは警察の規制が全くない学生の過激なデモがソ連大使館に対して行われ、続いて政府に認められたイタリア義勇軍兵士参加や多くの支援軍需物資輸送がフィンランドに行われた。12月、到着した新任のソ連大使は国王に謁見されぬまま帰国し、翌1月ソ連駐在イタリア大使は本国に召還された。

 西欧諸国世論の圧倒的ソ連批判とフィンランド軍の善戦はソ連赤軍の威信を大きく低下させており、ムッソリーニ・イタリアはヒトラードイツの支持などできなかったのである。40年1月ムッソリーニはヒトラーに書簡を送り、イタリアは「勇敢な小国フィンランドに好意を寄せている」ことを告げ、ヒトラードイツの国際的地位を警告、英仏との大戦争は望まず、ドイツの対ソ友好を激しく批判したのだった。

 しかし、ヒトラーはこれに冷淡で3月になってようやく返事を送り、ムッソリーニの書簡を全面否定し、ソ連のフィンランドへの要求は合理的であり、ボリシェヴィズム(ソ連共産主義)は「ロシア民族国家のイデオロギーと経済に発展しつつある」がゆえにソ連との友好的・経済的相互依存は可能であると断言したのだった(百瀬、277~278頁。ムッソリーニについては、パウル・シュミット、長野明訳『外交舞台の脇役(1923-1945)』日本図書刊行会、1998、529頁も参照)。


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