2024年12月14日(土)

近現代史ブックレビュー

2022年6月18日

共産主義者のさらに大きな驚き

 この不可侵条約には秘密議定書があった。そこでは、フィンランド・バルト三国・ポーランドに属する領域の「領土的・政治的変更の場合」の、「ドイツとソ連の利益範囲の境界」が決められていた。また、ルーマニアのベッサラビア地方については「ソ連の利益」が強調されていた。

 平たく言うと、ドイツはポーランドの西半分を自分の領土にする、東側からはソ連が入ってソ連領にするということであり、その周辺地域の配分も決められていたということである。これは第二次世界大戦後に知られたことであって、当時は全くの秘密であった。いずれにせよ、ポーランドら対象とされた国の独立性・自主性を全く無視した2大軍事大国による領土分割決定という典型的帝国主義的政策であった。

 ドイツとポーランドはダンツイッヒとポーランド回廊といわれる地を巡って抗争を続けていたので、これを名目に1939年の9月1日にドイツ軍はポーランドに侵入した。ドイツ軍は185万人に対しポーランド軍は95万人と2倍、戦車は2800両対700両で4倍、航空機は2000機対400機で5倍であった。

 ポーランド軍は総崩れとなり、ワルシャワが包囲された17日に今度はソ連が東側からポーランドに侵入した。32年に結ばれたソ連・ポーランド不可侵条約は無視された。ソ連のモロトフ外相は駐ソ連ポーランド大使に宣戦布告を告げ言った。「ポーランドの首都としてのワルシャワはすでに存在しない。ポーランド政府はすでに崩壊して、その息の根は絶えた。これはつまり、ポーランドという国家および政府は事実上消滅したということである。ソビエト連邦とポーランドの間で結ばれた協定についても、同じように無効になったということだ」。

 ポーランドは抵抗したが、東西からの軍事大国の挟撃の前に敗れるしかなく10月5日までに戦闘は終了する(亡命政府はフランスを経てロンドンに至り、なお2万5000のポーランド人が英国で「祖国解放」を期した)。両国はポーランドを分割、ポーランドは史上3回目の「亡国」状態となり、東側1200万人・20万平方㌔メートルをソ連に奪われたのである。また、この軍事行動を起こす時ソ連のモロトフ外相は、ソ連系少数民族の保護を名目にしていることも忘れてはならない。

 9月28日、リッベントロップ外相がモスクワを訪問、独ソ国境友好条約が結ばれた。エストニア・ラトヴィアに加えリトアニアをソ連の利益範囲とし、ポーランドのルブリン管区とワルシャワ管区の一部をドイツの利益範囲とするというものであった。ソ連の強い希望によるものと言われている。

 さらに、ソ連は100万余人のポーランド人をシベリアに送り、それとは別に捕まえた約2万2000人のポーランド人将校・官吏・警官・聖職者などをソ連のスモレンスク付近のカチンの森に連れて行き虐殺した。41年に発見されたが、ソ連はドイツによる犯行と主張し続け冷戦後の1990年にやっと自分の犯行と認めた。

第二次世界大戦の幕開け

 英仏は8月25日、ポーランドとの相互援助条約を結んでおり、それに基づき9月3日にドイツに対し宣戦を布告しヒトラーを落胆させた。

 こうして第二次世界大戦が始まった。(2019年9月、欧州議会は「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」という決議を採択、これに対しプーチンは21年7月出版物などでナチスとソ連を同一視することを禁止する法案を成立させた。)

 ただし、英仏両国はドイツに宣戦布告をしただけで、戦闘をほとんどせず、「奇妙な戦争」と呼ばれる状態が続いた。ポーランド戦役の間ドイツは西部国境に主要な軍隊をほとんど置かず、10月6日ヒトラーは国会で演説し英仏に和平を訴えた。

 さて、独ソ不可侵条約の秘密議定書に続く独ソ国境友好条約によって、バルト三国がソ連の利益範囲となることが決められていたが、ほぼそれに従ってバルト三国に対しては9月19日から10月10日の間にソ連との相互援助条約の締結が強要された。三国はソ連の陸海空軍への基地提供を認めるしかなかった。エストニアの場合、モロトフから、沿岸をソ連海軍が防衛することが伝えられ、続いてソ連軍の駐留・軍事基地建設と相互援助条約の締結が要求され、拒否すれば軍事力を行使することも伝えられた。条約に調印すると2万5000のソ連軍が入り島や港湾に陸海空軍の基地が建設された(鈴木徹『バルト三国史』東海大学出版会、105頁)。

 この後、これから述べるようにソ連はフィンランドへの戦争を始めるので、本格的侵略が始まるのはソ連・フィンランド戦争後の翌年6月になるが、3月からバルト三国内で共産主義者の活動は活発化した。

 そして、英仏に対しドイツが40年春から本格的戦争を行い、フランスの敗北がはっきりしてくると、5月25日ソ連からリトアニア政府にソ連軍兵士が誘拐拘束されたという非難文書が届けられた。リトアニア政府は調査を提案したが無視され、結局メルキス首相がモスクワに呼びつけられた。6月14日深夜、ソ連軍の無制限駐留・親ソ連政権樹立を骨子とした最後通牒がモロトフから発せられた。ソ連軍は国境近くで侵攻準備をし、バルト諸国の海と空の封鎖が始められた。15日朝にはソ連軍は複数のリトアニア国境検問所の攻撃を始め国境警備兵の死者・誘拐が出始めた。リトアニア政府は最後通牒受諾を決め、午後には赤軍第3軍・11軍がリトアニア侵入占領に動き始めた。メルキス首相は辞職させられ、特使がリトアニアに派遣され新内閣の組閣を指揮することになった。

 6月16日、エストニア・ラトヴィア政府にも覚書が届けられ、ソ連との条約を遂行できる新内閣の組閣と無制限のソ連軍の駐留が要求された。

 17日、両国とも最後通牒を受諾するしかなく、受け入れると同日すぐにソ連軍が進軍、同時に親ソ政権樹立のための特使がモスクワから来着した。19日までには三国は完全にソ連の占領下におかれ、ラトヴィア・エストニアの大統領はソ連に強制連行され、リトアニア大統領だけが脱出に成功した。

 7月、共産党以外の政党は非合法化され、反共産主義者と見なされた人は逮捕され、共産主義者のみの候補者名簿の選挙が行われ、それによって選ばれた人民議会がソビエト共和国を宣言しソ連邦への加盟を申請した。

 結局8月6日までにバルト三国はソ連に併合され消滅した。その後、秘密警察(内部人民委員部)を中心としたソ連の強権ですさまじい弾圧が行われ少なくとも約5万人以上の国の指導者と国民の逮捕処刑・シベリアなどへの国外追放・強制移住・行方不明が実行されていった(志摩園子『物語 バルト三国の歴史』中公新書、アルフォンサス・エイディンタス他・梶さやか・重松尚訳『リトアニアの歴史』明石書店、298-302頁、鈴木、107-12頁)。

 続いてソ連はルーマニアのベッサラビア地方と北ブコヴィナの併合も実施する。1940年6月26日ルーマニアに対し、ベッサラビア地方と北ブコヴィナの割譲さらに軍隊の4日以内の撤退を要求する最後通牒が出された。聞かなければ軍事力を行使するとしていた。そこは5万1千平方㌔メートル、人口375万人の地域であった。2日後にルーマニア軍は撤退を開始、この地域もソ連に併合される。

 北ブコヴィナをソ連領にすることは秘密議定書にはないことであった。多数のドイツ人が居住し旧オーストリア王室領であるブコヴィナへのソ連の要求を聞いた時、ヒトラーはバルト三国に対するのとは違い衝撃を受けたことが周囲に察せられた。このためリッベントロップはベッサラビアにはドイツ政府は条約に従って異議を唱えないがブコヴィナは全く聞いてないことをソ連に伝えた。モロトフはブコヴィナへの要求は北ブコヴィナに限定すると回答しただけだった。これが、ヒトラーの大きな不信を招いたことは間違いないと見られている。独ソ関係を大きく悪化させたのは、この秘密議定書に違反したソ連のルーマニア領併合であったとも言えよう。

 後に述べるように39年秋から冬にかけてのソ連フィンランド戦争においては、ドイツは親ソ連的であったが、バルト三国に大軍を集結侵入させたり、秘密議定書にはない北ブコヴィナ地域を併合したりしたのだからドイツの側にソ連に対する不信が生じたことは当然であったともいえよう。ドイツはこうしたソ連のやり方に大きな不信を抱き、この不信は結局ドイツのソ連侵攻の一因となる(三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』)。もっともヒトラー(ドイツ)がスターリン(ソ連)を警戒していたようにスターリン(ソ連)もヒトラー(ドイツ)を警戒していたわけで大差なく、資質の欠けた大国リーダーの存在が世界に大きな不幸を招くことがわかる。

 なお、このバルト三国併合のころリトアニアで領事をしていた杉原千畝が「命のビザ」を発行し、多くのユダヤ人を救ったことは事実だが、以上で分かるようにリトアニアを併合しこの地域のユダヤ人を圧迫したのはソ連であってナチスドイツではない(菅野賢治『「命のヴィザ」言説の虚構』共和国、参照)。


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