スターリンの「弁明」
では、ドイツ自身はどうかというと、フィンランド国民の期待を裏切り、イタリア・ハンガリーからドイツ経由でフィンランドに送られるべき支援軍需品を差し止めただけでなく返送したのだった。
そして、さらにフィンランド政府の再三にわたる紛争調停の要請も拒絶し通している。このようにこの時世界でソ連の味方はほとんどドイツだけであった。第二次大戦はどういう組み合わせになるかまだ決まっていなかったのである。
さて、戦争自体はどのように展開したか。両軍の戦力についてははっきりしないことが多い。ソ連軍45万人・フィンランド軍30万人余、この方面のソ連軍24万人(戦車1000両)・フィンランド軍14万人(戦車60両)、ソ連軍約40万人(主力の第7軍約20万)(石野・155頁、横手慎二『スターリン』(中公新書・2014)217、斎藤・26)などである。いずれにしても、数字的にソ連が圧倒的に優位であることは間違いなかった。
しかし、フィンランド軍は激しく抵抗し善戦、作戦期間を10~12日間と考えるなど見通しの甘かったソ連(斎藤、29頁)は戦争体制の根本的立て直しをせざるを得なかった。
すなわち、1940年2月にソ連軍はレーニングラード軍管区のみの担当であった戦争を参謀本部が直接指揮をとるソ連軍全体の戦争としたのである(「ソ連軍の半分60万」を増員した戦争体制としたと言われる)。
500機を動員した空軍の援助のもと赤軍は前進、カレリア地峡では30個師団に達したという。フィンランド側の動員力は底をつき、第一次防衛線は突破された。しかしなお激戦が展開されたが、スウェーデン駐在ソ連公使コロンタイによる和平交渉が開始されることになる。この時、モロトフは交渉相手として、それまではクーシネン政権しか認めていなかったものがフィンランド政府を認めたのでソ連の対フィンランド政策の根本的変化は察せられた。
なお、交渉のためストックホルムを訪れたフィンランド外相の密使左翼知識人ヴォリヨキはソ連側使者の態度に「彼らはかつての仲間であったロシア革命当時のボリシェビキとはまったく別者になっていた」と外相宛てに報告している(百瀬宏・石野裕子編『フィンランドを知るための44章』(明石書店、74頁)。ロシア革命当初の共産党とはかなり変質したものとなっていることがうかがえるのである。
こうして、ソ連軍の攻勢にフィンランドが劣勢となる中、戦況による講和条件の悪化と英仏連合軍の援助とのどちらを重視するかがフィンランド政府の運命を決めることになって来た。
2月23日、フィンランド政府はスウェーデン政府を通してソ連の詳細な和平条件を知らされたが、カレリア地峡などの割譲や長期貸与など極めて厳しいものであった。そこで、フィンランド政府はスウェーデンに正規軍の派遣と英仏連合軍の通過の了解を求めた。スウェーデンは再度拒絶したが、それでも英仏は、5万人のフィンランド救援のための兵力を準備しており3月15日にはナルヴィクに出発させる旨、3月初めフィンランドに約し戦争の継続を求めた。
しかし、スウェーデン・ノルウェー政府がなお同意しないため、ついにダラディエは同意がないままの強硬介入を主張、英国も同調し、ノルウェーへの強行上陸を実施しようとした。
3月8日、フィンランド政府代表団がモスクワに到着、休戦交渉が開始された。やはり厳しい条件だったので、これがヘルシンキに伝えられると英仏からの援助を受けるべきだという意見が巻き起こった。しかし、戦える力のあるうちに講和を結んだ方が得策だという議論がこれを制し12日、平和条約が調印された。
3月13日平和条約が実現したことが報じられたので、すでに準備の始まっていた英仏のフィンランド支援作戦は停止された。ただ、ノルウェーの中立を犯すノルウェー領海内への機雷敷設はその後実施されるので、これに対しヒトラーもデンマーク・ノルウェー作戦を実施、結局フィンランド支援をめぐる北欧作戦は「奇妙な戦争」を終わらせる一因になった。また、フランスではこの作戦失敗のためダラディエ政権は崩壊する。
戦争全体についての被害についてもやはりはっきりしないことが多いが、ソ連軍の死者12~13万人・負傷者26万4000人以上、フィンランド軍死者2万3000人、負傷者4万3000人という数字は比較的信頼できるものと言えよう(横手、218)<ほかにソ連軍死者20万人~25万人・負傷人者60万、フィンランド軍死者2万4923人、負傷4万3557人,という数字もある(斎藤、256頁)。>いずれにせよ、ソ連側の被害が非常に大きいことがわかる。
スターリンは40年4月の会議で、フィンランドとの戦争はレーニングラード防衛のため不可避だったと弁明したが、犠牲者があまりに多いので弁明せざるを得なかったのであり「軍部の誰一人として、彼の発言をそのまま受けとらなかったであろう。やがて、「冬戦争」として知られるようになる、この戦争はスターリンが生きている間は、「忘れられた戦争」になった」(横手、218~9)。
耕地面積の約10%を削減され、約40万人が移動させられるなど領土的には平和条約はフィンランドに不利なものであったが、善戦によりフィンランドは、議会政治などの自由主義的政治体制、そして何よりも独立を守り通したのであった。これを「冬戦争の驚異」という。
ソ連(ロシア)の行動パターン
以上からわかるようにソ連の行動パターンはかなりの程度決まっていると言えるであろう。ソ連の安全保障にとって必要と決めると、相手が小国であっても、国境に大軍を集めて威圧するなどし、領土交換・割譲などを要求、またその地域のロシア系住民の保護を掲げて、戦争を仕掛け、自ら指導する民主共和国などを作って支配・併合していくのである。
米国の社会科学者フレデリック・シューマンは、ポーランド・バルト三国までのソ連の行動はマキャヴェリズムとして礼賛していたが、フィンランドに攻め込んだ時にはさすがに侵略として批判の声を上げたのだった。「一九三九年までにはスターリニズムの本体に目覚めるべきであり、フィンランド以後もソヴィエットが進歩のシンボルであるという自己欺瞞にしがみついた者は、アメリカのリベラリズムの伝統に反する。三〇年代を生き抜いて来たアメリカ知識人の多くは、以上のように考えるに至った」(本間、244~245頁)。
ソ連が和平に応じた原因として、軍事的背景が第一に挙げられる。すなわち、短期決戦による軍事的勝利とフィンランド政府の崩壊という見通しがはずれ、本格的軍事作戦を余儀なくされ、その結果自ら作った傀儡政権によるフィンランドの革命・解放の援助などという看板は空疎なものになったのであり、通常の政府を相手にした通常の戦争たらざるを得なくなったのである。
しかし、そればかりではなく、英仏によるフィンランド援助の動きが大きな要因となっていることはソ連戦史も認めるところである。繰り返すが、3月はじめに英仏の5万人のフィンランド援助軍派遣は確約され準備は進んでおり、そのままではソ連は第二次大戦に英仏を敵として参加することになりかねなかったのである。
以上をまとめよう。ソ連フィンランド戦争に見られるように、ソ連・ロシアといえども、被侵略国の抵抗と各国の支援による孤立・包囲は避けたいのである。
今回の戦争においては、核兵器の使用を恫喝に使ったので、広島・長崎は今年の平和式典などにロシアの出席を拒絶したが、被爆国民・市民として当然のことであり、世界はこうした形で国連憲章に違反するとして国連総会で非難決議が採択され、国連人権理事会理事国の資格も停止されたロシアの戦争を批判し、ねばり強く被侵略国ウクライナの支援を続けていかなければいけないだろう。それは長期的には国際化したロシアを生むことにつながるのであり、世界のためのみならずロシア自身のためにもなることなのである。1930年代の歴史に学ぶということはそういうことであろう。
〝人手不足〟に喘ぐ日本で、頻繁に取り上げられるフレーズがある。「外国人労働者がいなければ日本(社会)は成り立たない」というものだ。しかし、外国人労働者に依存し続けることで、日本の本当の課題から目を背けていないか?ご都合主義の外国人労働者受け入れに終止符を打たなければ、将来に大きな禍根を残すことになる。