山川は激浪を遡り、苦難の旅の果てに「天府」の別名で呼ばれる豊かな四川省に足を踏み入れる。当時、省都の成都は外国には未開放だったが、すでにドイツを軸に列強諸国が活発なビジネスを展開し、同地における「外国商品は主として独、仏、英及日本等より輸入」されていた。
「毛布、大小時計、靴、玻璃類、莫大小類、金属器具、玩具、缶詰、酒烟、菓子、薬品、西洋食器、陶器、洋傘、洋紙、文具等」に他の雑貨を加えた日用品が上海から運ばれていたが、なかでもドイツ製品が最も人気とあり、ことにドイツが独自に考案・製造した「独特の瀬戸引器具即ち洗面盤、薬缶、手提割盒など」が売れ筋だった。
山川はドイツ製品が品質堅牢、価格低廉である上に、現地消費者の「嗜好習慣」を巧みに取り入れている点に舌を巻く。
たとえば手提割盒だが、古くから中国には「携帯用の数段に重ねたる竹製〔中略〕の割盒ありて、家居旅行共に闕く可からざる一要器に数へら」れていた。重箱を何段にも重ねたような「割盒」は、たしかに食べ物の持ち運びには便利ではある。だが、竹製だから長期間の使用には耐えられないばかりか汁物を扱えない。この欠点に、ドイツは目を付ける。
ドイツは、竹製と同じ機能で鉄製瀬戸引きの手提割盒の大量生産を始めた。当然、価格は中国の竹製よりは高くはなるが、水にも火にも強い。そのうえ長期使用にも耐えられる。さまざまな利点から考えて、コストパフォーマンスは抜群だ。加えて「見懸によらず、体裁を喜ぶ」中国人の消費動向を見抜いて斬新なデザインを採用した販売戦略が奏功し、ドイツ製品は瞬く間に販路を広げることとなる。
このように中国人が日々接する商品から、ドイツは中国の消費者心理を巧みに捉えることに成功したのだろう。おそらくドイツ人は日本人とは違って、《中国人はこういうものだ》という一知半解な固定観念に左右されることがないのではないか。
考えればドイツは中国との間に日中関係に象徴される一衣帯水も、同文同種も、子々孫々の友好も、ましてや歴史問題などとの厄介極まりない関係はなく、あるのは主として「双贏(ウィン・ウィン)関係」だろう。この実利関係は、その後の日中戦争期を経て現在にも通じているに違いない。ドイツと中国の間には〝親和性〟とでも呼べそうな関係が続いているように思える。
裏工作にも余念がない
山川はドイツの成功の要因を、「独乙が真面目なる研究の結果に外ならず、歩を進めて考ふれば、善く詳に身を需要者の側に置」いただけではなく、「主として在留の官商間に於て油断なく注意を払」っていたからだ、とも指摘することを忘れない。成都在留のドイツ官民が共同し現地における消費動向を抜かりなく観察し、ビジネスに生かしていたわけだ。
そこで、時に〝悪手〟も使って見せる。ドイツ艦船による日本商品輸送妨害工作などは、その顕著な一例だろう。
東亜同文書院に学んだ後に外務省中国畑を歩くことになる米内山庸夫は、山川から5年遅れた1910(明治43)年、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンから北西に向かい、雲南省から四川省入りした。彼は踏査記録の『雲南四川踏査記』(改造社 1940=昭和15年)のなかで、「官商間に於て油断なく注意を払」っているドイツの姿を記している。
実は「商品を軍艦で運んで来る」ドイツは、「輸入税を一文も払はない。だから価を安くして売ることが出来る」。こうして他国商品を圧倒し、ますます販路を拡大することになる。
ドイツ領事は「支那官憲と聯絡するに金を使ふことは少しも惜しまず、あらゆる手段を尽して利権の獲得に努めてゐる。(中国側の)機器局の技師は独逸人で独占し、いま製革廠にまで手を伸ばさんとしてゐる」。
ドイツ領事は製革廠の責任者に「オルガンだのピヤノなどを贈」るばかりか、彼の邸宅に「自ら洋酒や料理を持つて」出向いて「饗応したりする」。当時、製革廠で技術指導に当たっていた日本人技師を追放し、ドイツ人技師を送り込もうと画策していたのだ。