ドイツ領事の活発で老獪な活動は続く。
ドイツの「領事は、また西蔵(チベット)にも興味を持ち、蔵文学堂教師の西蔵人某を一週二回づゝ自宅に招んで西蔵語を習」っているが、語学教師としては破格の金額の授業料を惜しまない。それというのも、彼は語学教師の傍ら官吏として四川省政府のチベット関連公文書の一切を取り仕切っているからである。
「西蔵と四川との交渉往復は第一にその西蔵人の知るところとなり」、そのままドイツ領事に筒抜けとなる。だからドイツ領事は、居ながらにしてチベットの内情に加えチベットと四川省政府(ということは中央政府)の交渉の詳細を知ることができた。スパイもどきと言うより、スパイそのものだったわけだ。
しかも、である。その領事はドイツの「陸軍中尉で、今度帰国に際して西蔵を経て西に向はんとして支那官憲に交渉中といふ」。中国、インド、中央アジアの中央に位置しているゆえに、チベットもまた列強にとっては極めて重要な戦略拠点だったはずだ。かくて米内山は「いかにも独逸の活動心憎きまで溌剌たるものあるを感じ」た、呆れ顔で記している。
鉄鉱山での狡猾な利権獲得
米内山から9年後の1919(大正8)年夏、東京高等商業学校(一橋大学の前身)の「日頃東亜の研究に志す」若者の一団は「四旬に渉つて支那を南から北へ旅行し」、帰国後に「支那が我々日本青年の目に如何に映じたかを語」ろうとして、『中華三千哩』(大阪屋號書店 1920=大正9年)を上梓する。そこに、長江中流の漢口近くの大冶鉄鉱山を舞台にしたドイツの「狡猾」に「暗中飛躍」する姿が書き留められていた。
清朝末期に近代化を推し進めた洋務派有力官僚の1人である張之洞は長江中流域を管轄する湖広総督を務めていた当時、古書の記述から管轄区域内の湖北省大冶県一帯に鉄鉱床があろうかと見当を付けた。
そこで1980年にドイツ人技師の「ライノンを聘して、実地踏査をなさしめた」ところ、果たせるかな張之洞の見立てに狂いはなかった。「ライノンは三旬の探査の後、古代製鉄の遺跡を発見し、次いで世界に有名なる本鉄山(=大冶鉄鉱山)の発見するに至つた」のである。
だがライノンもさるもの。雇い主の張之洞に対し素直に従うわけではなかった。「単なる支那の忠実なる一傭技師に甘んぜんや、我が本国への忠義立ては此時と、張之洞へは知らぬ顔の半兵衛をきめこんで、裏面では早速北京の独逸公使を通じて本国政府に密電を発し、利権の獲得を慫慂した」と言うのだ。
ライノンからの「密電」を受けたドイツ政府は、もちろん素早く動いた。直ちに在北京公使に訓令し、大冶県一帯の鉱山採掘権と鉄道敷設権を「支那政府に要求せしめた」のである。
中央政府にとっては寝耳に水だったろうが、張之洞からしたら飼い犬に手を噛まれたも同然である。烈火のごとく怒りまくったであろうことは、やはり想像に難くはない。
「当時独逸のやり方が如何に狡猾であつたかは、大冶に行つたものは、素人でも直ぐ気付く程」であった。それというのも「殊更鉄路を迂回せしめて、距離を延長し」、なんとかして「機械材料などを少しでも多く買はせやうかとする魂胆だつた」からだと、大正期の「日頃東亜の研究に志す」若者の1人が『中華三千哩』に綴っている。