「溺死」に「黒孩子」、数字には表れない側面
それにしても興味深いのが、同じ米国留学組でも馬寅初と『中国人太多了嗎? TOO MANY PEOPLE IN CHINA?』の2人の著者の違いである。前者は貧しく混乱した時代に米国で学び、中国社会の貧困と混乱の原因を多産に求めた。言い換えるなら外国列強に侵され(半殖民地)、大多数の農民が地主に支配され(半封建)た結果、「東亜病夫」とまで蔑まれた「弱い中国」を「マトモな国」に作り変えるには人口の抑制が急務であることを、敢えて絶対権力者の毛沢東に逆らってまで説いた。
一方、「富強の中国」のトバ口に立った時代に米国留学を果たした2人の若き人口学者は、習近平政権成立直前、「中華民族の偉大な復興」のためには多産が急務であることを力説した。
馬寅初と2人の若き人口学者の米国での研究者生活の間には、1世紀ほどの時間的な開きがある。この間の、米国と中国の紆余曲折の関係を考えた時、米国の中国に与える影響の大きさを改めて痛感させられる。
ところで一人っ子政策が行われていた時期の2008年、湖南省と重慶の農村を歩いた際の経験だが、湖南省で目にしたのは農家の真っ白の大きな壁に墨痕鮮やかに記された「厳禁溺死」の大きな4文字だった。重慶郊外では、道路沿いの農家の塀に「子供は国の宝。女の子でも大切に育てよう」とのスローガンが延々と書き連ねられていた。
「溺死」とは間引きである。男の子は大きくなって家を継ぎ両親の老後を見守るが、女の子は他家に嫁いでしまう。伝統的に男の子が尊ばれていたゆえに、生まれた赤ん坊が女子であったなら、水に浸けるなどの間引きが行われていた。
かねてから清朝末期の社会風俗に興味を持っていた筆者は「溺死」など清朝末期の特殊な社会環境での止むにやまれぬ〝庶民の知恵〟だと思い込んでいただけに、08年の「厳禁溺死」の4文字は衝撃だった。一人っ子政策にも拘わらず、女の子は相変わらず不幸な運命を背負って生を享けざるを得ないわけだ。
であればこそ、「女の子でも大切に育てよう」となるわけだろう。だが、最近でも中国の地方紙からは女の子とその子を産んだ母親の悲劇を読み取ることができる。
中国庶民の生き方として知られる「上に政策あれば、下に対策あり」だが、一人っ子政策が励行されていた当時、農村では第2子以降は政府に届けなかった。「黒孩子」と呼ばれた戸籍のない子供が社会問題化しメディアで取り上げられたことがあるが、今回の中国国家統計局が示す統計の中には、かつて話題となった「黒孩子」はカウントされているのだろうか。
〝おひとりさま男子〟の数を日中で比較し、「中国は日本の7倍に達するほどの異常な人口構成」と危機感を煽る声も聞かれるが、人口比で中国は日本の13~14倍である。単純に計算しても、社会全体に占める〝おひとりさま男子〟の比率は日本の方が高い。つまり将来の出産の可能性は、日本の方が低いことになる。いわば、この種のタメにする見解が日本人の中国に対する見方の妨げになっていると言わざるを得ないのである。
複雑怪奇な事象を習近平はどう解くか
1970年代末に鄧小平主導が導いた対外開放政策のカラクリを考えるに、共産党政権は海外から豊富なカネ(外資)とモノ(工場・技術)を呼び寄せ、これに内陸農村部に滞留していた膨大なヒト(余剰人口=労働力)を格安な人件費で供給した。
このようにカネ・モノ・ヒトの合体が現在につながる空前の経済発展を導いたと考えるが、毛沢東の「人口資本論」に基づき人口抑制を実施しなかったことが、中国大陸に予め膨大な労働力を備蓄しておくことができた大きな要因だろう。ならば皮肉にも、経済発展は毛沢東が〝後世に遺した遺産〟であったのかもしれない。
改めて1月17日の中国国家統計局による発表に接して、その背景は日本のメディアが伝えるほどに単純ではないと強く思う。共産党の統治体質、家系を軸とする伝統的な男子尊重の家族制度、そして経済発展が必然的にもたらす若者の家族観の変化――。これら質的に異なる要素を、はたして「中華民族の偉大な復興」に統合して取り組めるのか。
どうやら3期目に入った習近平政権を待ち構えていたのは、中国の社会経済発展と人口、中国人と家族という旧くて新しい大難題だったようだ。