2024年5月1日(水)

医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から

2023年3月10日

 避難所の人からみれば、ボランティアたちは、突然やってきて一瞬で去っていく嵐のような存在である。そんなよそ者に事情を話したとしても、その相手は来週には帰ってしまう。何のたよりにもならない。

 「こんな人たちにこころのなかを打ち明けて、何の意味があるのか」。そのように被災者が思うとしても、それは当然であろう。

「よりそう」ということ

 ボランティアは別として、精神保健専門家は、「こころのケア」のイメージと実態の乖離に気づいている。被災地に集合した専門家たちは、対策本部を立ち上げ、関係各機関と協力しつつ、情報収集・情報提供を行い、必要を判断して支援団体に派遣を要請する。

 とりわけ、精神科病院における被害状況の確認、通院中患者に対する継続治療の確保、災害により発症する反応性メンタル不調への対応、地域医療機関・薬局・薬剤供給ルートの確認、災害拠点精神科医療機関の指定などがある。避難所に医師・保健師・看護師・心理士が入ることもあるが、その場合も、まずはお薬手帳の確認、持病薬のチェック、必要に応じての投薬、身体診察、睡眠・食事・運動等の基本的生活習慣等、喫緊のニーズへの対応に専心する(厚生労働省『自治体の災害時精神保健医療福祉活動マニュアル』,2021)。

 すなわち、プロフェッショナルが第一に行うことは、「こころのケア」という言葉で連想される「お悩み相談」ではない。むしろ、「こころのケア」の前段階の、「今、ここで、生き延びる」ためのインフラストラクチャーの再構築である。

 一対一の診察・面接を行うこともあるが、その目的は、いかにもメディア映えのする感動場面を演出することではなく、もっと基本的なプライマリケア診察である。それらは、一見平凡で、視聴率的な価値はないが、被災者をサバイバルさせるためには、何よりも優先させなければならない。

 その一方で、よそ者はよそ者としての自覚をもって、「踏み込みすぎない」節度が必要である。ボランティアは、被災者にとって赤の他人である。

 赤の他人が被災者のこころの傷にふれれば、かえって傷を深くしてしまう。「よりそう」という言葉も使われがちだが、悲しみに打ちひしがれたとき、人はある特定の人に「よりそってほしい」とは思うが、突然現れた未知の人物に「よりそってほしい」とは思わない。

 被災者援助には、デリカシーが必要である。「こころのケア」を叫ぶ無思慮なボランティアは、結局のところ被災者にとっては「招かれざる客」となりかねない。

地域に根差したさりげない「こころのケア」こそ

 さて、震災から12年がたち、今も地域に暮らすのは地元の人ばかりである。このような状況こそが、「こころのケア」を作る機会ともいえる。しかもそれは、ことさらにそう語らなくていい。ただ、さりげなく地域社会の活性化を図ることが、結果として「こころのケア」につながる。

 たとえば、仮設住宅の集会所、公民館、図書館、街角のカフェ・レストラン、寺・神社などを拠点に、人々の集まる機会を作るのもいいであろう。そのための理由は、なんでもいい。

 阪神淡路大震災では、ヨガ、お茶飲み、マッサージ、気功などを理由に、地域の活性化が進んだ。東日本大震災では、住民健診を兼ねたお茶飲みの会、「一休みの会」などが、成功事例として知られている(日本医療政策機構『自治体の災害後中長期に渡る精神保健医療福祉体制の構築に関する実例集~提言』,2022)。

 これらのほとんどは、あからさまに「こころのケア」を謳ってはいないが、地域で暮らす人がともに日々の暮らしを語り、未来を思い、過去を振り返り、そのついでに震災のことを話題にするとしたら、それはまさに「こころのケア」そのものである。


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