岸田文雄首相襲撃事件の陰に隠れてしまったが、北朝鮮よる先週のミサイルの発射も日本に深刻な影響をもたらした。当初、北海道への落下が予測され、Jアラートによる避難呼びかけで交通機関などに混乱が生じた。
今回を含め、政府は北朝鮮への厳重な抗議を繰り返しているが、先方が蛮行を中止する気配はみえない。いわば「いたちごっこ」だ。言葉で効果がないとすれば、北朝鮮が従わざるを得ない強い手段を確保しなければならない。
抗議の裏づけとなる手段を
4月13日の「固体燃料による新型大陸間弾道ミサイル(ICBM)」(朝鮮中央通信)は、発射実験としてはことし7回目、ICBMは3回目となるが、アラート発令もあって緊迫の度合いはこれまでとは大きく異なる。
この動きを伝える翌日付の各紙をみると、いずれも判で押したように「政府は北京の大使館ルートを通じて北朝鮮に厳重に抗議した」とのいつもながらの一節を繰り返していた。北京大使館ルートでの抗議がどのように行われ、北朝鮮側がどう反応したのかについて政府は、「機微な外交マター」(外務省)を理由に、やり取りを詳らかにするのを避けている。
元外交官らによると、通常は国交がないこともあって、抗議の口上書を送るのが一般的だという。平壌からの回答に接することはほとんどない。
ミサイル発射のたびに抗議、無視されるとあっては嫌気がさしてくるだろうが、やめることはできない。効果のない申し入れだとしても、いったんやめてしまうと、「日本は黙認した」という悪宣伝に利用されるからだ。
外交的な手続きでらちが明かないとすれば、その裏付けとなる手段、つまり政策そのものを変更しなければならないだろう。
日米韓によるTCOG復活に活路
幸い、元徴用工の訴訟問題が解決をみたことで日韓関係が大きく改善した。今後の対北朝鮮政策におけるキーポイントになろう。
対北朝鮮政策に新しい政策はなく、これまで行ってきたことを、より効果的、強力に行うこと以外にありえない。
まず検討すべきは、日本、米国、韓国の連携の再活性化、具体的にはかつて3国の間で存在した「3国調整グループ」(TCOG)と呼ばれる枠組みの復活だろう。TCOGは、北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)脱退などを宣言した第1次核危機最中の1993年2月、米国務省とワシントンの日韓両大使館の担当者が危機打開について協議したのが、いわば起源だ。
96年1月には、その後の対北朝鮮人道支援のモデルになった水害救援について次官級の話し合いが行われ、99年4月に対北政策全般についての調整の場として制度化された。TCOGという名称はその時、初めて登場した。
次官級から始まって、その後は局長級でホノルル、東京、ソウルなどで、節目ごとに北朝鮮問題を協議、毎回、共同声明も発表してきた。しかし、公式会合は2003年が最後。以降は非公式の形式をとったが、05年からは休眠状態になっている。