第2回で見たように国際秩序に対する不満が高まりつつあった日本だが、ではその国際秩序はどのようなものだったのか。それは政治面では国際連盟を基礎としつつ各国の軍縮を目指す「ベルサイユ体制」と「ワシントン体制」、そして経済面では「国際金本位制」であった。
19世紀初めから世界の主要国が採用した金本位制は、金と貨幣単位を結びつける制度である。日本では日清戦争の結果得た賠償金を基に1897(明治30)年の貨幣法で金0.75グラム=1円と定められ金本位制に移行した。
各国が金本位制を採用すれば、国際収支の不均衡が生じても金の自由な輸出入を通じた自動調整により通貨は安定するとされ、貿易や国際資本移動が活発に行われる自由貿易体制を支える制度となった。ただし、実際は大幅な国際収支黒字国の英国が海外投資を行って他国の国際収支赤字を補うことで、金本位制が維持されていた。金本位制は自由経済の象徴であると同時に、英国中心の国際秩序でもあった。
第一次世界大戦勃発により、交戦国は膨大な財政支出が必要になったため、財政支出拡大の制約となる(発行する紙幣に応じた金の準備が求められる)金本位制を次々に停止し、米国の金輸出禁止(1917年)に日本も追随した。
その後、大戦終結に伴い多くの国が1920年代半ばまでに金本位制に復帰し、同時期の国際経済会議では金本位制再建が目標として掲げられた。しかし英国の経済力が低下する一方で、新たに大国となった米国が世界経済に積極的に責任を持とうとしなかった戦間期の世界では、国際金本位制は不安定なものとなっていた。
一方で貨幣一単位が含む金の量(平価)の切り下げは認められており、戦争中にインフレの進んだドイツ、イタリア、フランスなどは平価を大幅に切り下げた新平価で金本位制に復帰した(たとえばフランスは復帰に際し戦前の約5分の1にまで切り下げた)。
これに対し、英国は大戦前と同じ金の量を含む旧平価で1925年に金本位制に復帰した。旧平価での復帰で英国ポンドは約1割上昇し海外投資に有利になったが、輸出品価格上昇と輸入品価格低下により国内産業に大きな打撃を与え多くの失業者が生じた。
日本では大戦終結後、金本位制への復帰が目指されたが、大戦後の恐慌や関東大震災、昭和金融恐慌への対応に追われ先延ばしされていた。金と円とのリンクの喪失で為替相場は国際収支により大きく変動し、財界からは為替安定のため金本位制への復帰(金輸出を解禁するので当時は「金解禁」と呼ばれた)が強く求められた。
1928年にフランスが金本位制に復帰して主要国で日本だけが復帰していない状態になったこともあり、1929年に発足した立憲民政党の浜口雄幸内閣は大蔵大臣に井上準之助を起用し、金解禁の実施を公約に掲げた。