2024年6月20日(木)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年5月3日

 当時の二大政党である立憲民政党と立憲政友会、また世論も金解禁の必要性についてはほぼ一致していた。これは金本位制の採用が当時の「一等国」の条件だったことに加え、金解禁が当時の「慢性不況」を打破するものになるという期待があったためである。

 日本経済の苦境を打開するため、産業技術の高度化、品質の向上などの産業振興を図り生産性を向上させ、輸出を促進することによって不況を克服し社会問題を解決していくことは当時の国民的課題であり、それゆえ輸出促進のため国際協調下で自由貿易体制を維持していくことを目指す「経済外交」が推進された。当時のグローバルスタンダードである金本位制への復帰はこうした経済外交の一貫として目指されたものであった。

最悪のタイミングで行われた金本位制復帰

 ただ金解禁の時期や手法については意見が分かれていた。第2回でも取り上げた石橋湛山のほか、高橋亀吉(経済評論家)・小汀利得(中外商業新報<現・日本経済新聞>経済部長)・山崎靖純(読売新聞経済部長、のち山崎経済研究所所長)ら民間エコノミストは、英国の経験を参考にして、旧平価は日本経済の実力からは割高のため、平価を切り下げて金解禁を行うべきだとする新平価解禁論を主張し、「新平価四人組」と呼ばれた。

 一方、財閥系銀行中心の財界主流派は産業界の徹底的な整理と合理化のために早期の金解禁を主張していた。また、当時の民政党は少数与党であり、新平価解禁に必要な貨幣法改正は困難であったが、旧平価解禁は大蔵省令廃止という行政措置だけで実施可能であった。

 当時時期が迫っていた外債借り換えに円への信用が必要とされたこともあり、浜口首相と井上蔵相は早期の旧平価金解禁を選択し、緊縮予算を組むと共に、旧平価金解禁に伴う不況は産業合理化と国際競争力強化により後の発展につながるというPR活動を国民に向けて盛んに行った。

 1929年10月には世界恐慌の前触れとなるウォール街の株価大暴落が発生するが、当時は米国でも楽観論が支配的であり、1930年1月に旧平価金解禁が実施された。2月の総選挙では金解禁による景気回復への期待感から民政党は圧勝し、国民は金解禁を支持した。

 しかし金解禁後、円為替引き上げと世界恐慌の深刻化により輸出は大幅に減少し、財政も緊縮されたため昭和恐慌と呼ばれる未曾有の大不況が生じた。都市部で失業者が急増する一方、農村も第2回で取り上げたような構造的問題による苦境に恐慌が追い打ちをかける。日本の主力輸出品だった生糸は主要需要国だった米国が大恐慌となったため大きく輸出が落ち込み、農村部の児童の栄養失調などが社会問題化する事態となった。

 恐慌の深刻化に加えて、英米との協調路線から浜口内閣が進めたロンドン海軍軍縮条約について、それが天皇の統帥権を干犯するとの批判が政友会から起こり(統帥権干犯問題)、経済と政治の両面から政府への批判が高まった。1930年11月には浜口首相が右翼に狙撃され重傷を負い、翌1931年4月に辞職し、8月に死去する。

 浜口内閣の後継の若槻礼次郎内閣でも井上準之助は蔵相として金解禁の維持を続けるが、1931年9月には満洲事変が勃発し、ほぼ同時に英国が金本位制から離脱する。こうした内外の情勢から日本も早晩金本位制を離脱し円相場が下落するという観測が高まり、三井銀行など大手銀行や投機筋が円を売ってドルを買う動きが盛んになり、財閥のドル買いとして強い批判を受けることになった。


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