近現代史ブックレビュー

2021年4月17日

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筒井清忠 (つつい・きよただ)

帝京大学文学部長

1948年大分市生まれ。帝京大学文学部長・大学院文学研究科長。東京財団政策研究所上席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店)、『二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)など著書多数。

 近現代史への関心は高く書物も多いが、首を傾げるものも少なくない。相当ひどいものが横行していると言っても過言ではない有様である。この連載はこうした状況を打破するために始められる、近現代史の正確な理解を目指す読者のためのコラムである。
二〇世紀ナショナリズムの一動態
中谷武世と大正・昭和期日本

木下宏一 三元社 2970円(税込)

 かつてNHKで、二・二六事件の思想的リーダーと目された北一輝の声(と言われるもの)が放送されたことがあった。事件の最中に戒厳司令部が録音したものらしい。長く事件を研究してきた私は驚くと同時に半信半疑でもあった。NHKの二・二六事件番組は、現在もそうなのだがきちんとした専門研究者を参加させた十分な検証を行わずに誤った内容をセンセーショナルに放送することがあるからである。それに写真で見る北の容貌・年齢に似合わぬ声だった。

 この時、大正期以来北の知己で当然声を聞いていた中谷武世が、「おかしい」と言い出し、“やはり”と思っていたところ、後に明白な間違いで他人の声だとわかった。最初から中谷のような人に聞いて確認しておくべきだったのである。重要な誤報だから謝罪・訂正があるかと思ったが、それもないままこの番組は賞をとったというのでまた驚かされた(NHKの二・二六事件番組の問題点については、筒井清忠「 『二・二六事件東京陸軍軍法会議録』解題」 226_kaidai.pdf (j-dac.jp) 参照)

「中谷武世」の人生を決めたもの

 この誤報に疑念を提示した北の運動の「同志」中谷武世が本書の主人公である。

 中谷は、北一輝・大川周明らとともに大正期以来のアジア主義・超国家主義運動の中核を担った人物であるが、それに留まらず現東京都知事・小池百合子の師でもある。それだけに本書は一筋縄ではいかない大変興味深い内容になっている。

 日本の超国家主義を、極端な国家主義とするのではなく「現実の国家を超越した価値を追求する」面も持った存在と定義して丸山真男を乗り越え、研究を飛躍的に発展させたのは橋川文三であった(橋川文三著・筒井清忠編『昭和ナショナリズムの諸相』名古屋大学出版会、1994年参照)。確かにそれがアジア主義である限り単純なナショナリズムに収まるわけもなく、そこには大きな問題性と可能性がはらまれていたが、本書もその橋川文三的問題意識の延長線上にあるといえよう。

 叙述は中谷の誕生から死まで続くが、日本の超国家主義運動にとって最も重要な中谷の青年期を扱った大正・昭和初期の叙述にやはり精彩がある。全体によく調べられており新しく判明した事実も多い書だが、意義がとくに大きいのもその箇所である。

 中谷武世は1898年和歌山県の生まれ。1917年から20年の間第八高等学校に在学したが、この時期はロシア革命から第一次世界大戦終了にかけての時期であり、日本でもデモクラシー、社会主義、国際主義の3大潮流が大きく渦巻き始めていた。吉野作造の民本主義の影響下の結社黎明会や新人会が結成されたのである。

 こうした中生まれたのが北・大川らの猶存社であった。第八高等学校を終えて東京帝国大学法学部に入学して間もない中谷は学内の会合で大川周明の話を聞き、翌日大川の導きで猶存社を訪問、北一輝に会う。

 北は「金ボタンの学生がみな革命をやった」と自らの辛亥革命の経験を披歴してアジアの植民地解放運動に中谷を誘った。渡された猶存社の機関誌『雄叫び』にあった「チグリス・ユフラテス河の平野を流るゝ所、ナイル河の海に注ぐ所」に「人類解放戦の大使徒としての日本民族の運命」があると書かれた北の文章に魅せられ、中谷の生涯の方向は決まった。満川亀太郎ら猶存社の同人と親しくなり、後に著名となる安岡正篤を猶存社に導いたのも中谷だった。

 当時、猶存社が力を入れていたことにインド独立運動の支援があった。当時東京外国語学校で教えていたインド人アタールは、英国大使館の命を受け対日諜報活動に従事していたムジュムダルからスパイとして働くことを強制され抵抗のため服毒して自殺した。ガンディーの、悪と不義に対する非暴力・不服従の運動=「サチアグラハ」を身をもって実践したのである。

 彼を追悼する講演会が1921年に東大法学部の教室で開かれたが、これが中谷の言論戦デビューであった。大川周明・中野正剛らと並んで登壇し「新亜細亜主義」について演説を行ったのである。出席者の中に亡命インド人ラース・ビハーリー・ボースもおり、こうして中谷はアジアの植民地解放運動のメンバーに出会っていった。

 とくに、愛と慈悲の実践を説く宗教家でもありインド独立運動の闘士として国際的に知られたプラタプとの交友は深く、「我が人類主義の同志」と呼び著書の翻訳までしている。プラタプは第3インターナショナルから資金援助を受けていたともいう。

 この前後には、中谷が上杉慎吉の影響を受けたとするこれまでの叙述は間違いであり上杉との関係は見られないとか、アタールを追い詰めたムジュムダルは英国大使館の参事官と従来書かれているが実際は輸入商社の社員であったことなど、従来の研究によってははっきりしなかったことや誤りの訂正がいくつも記載されており、非常に優れた精細な内容になっている。岸信介は中谷の学生時代からの知り合いと思っていたが、1936年以降に出会ったと本書により初めて知った。ディテールの正確さが歴史書の信頼性を担保するよい証左だ。

 興味深いのは、ガンディーの非暴力運動に影響を受けたことにかかわるエピソードである。戦後1945年12月中谷が国会議員であった時、帝国議会において、中谷はポツダム宣言の武装解除の条項に関して日本は結果的にガンディーの非暴力主義「サチアグラハ」を実行することになったと指摘したのだった。これに幣原喜重郎首相が「深き同感を以て拝聴いたした」と答弁。これが日本国憲法9条の戦争放棄の1つの起源であると中谷自身が言っている。

 憲法9条の起源については諸説あり中谷の主張通りの可能性はあまり高くはないが、思想的には北一輝の『日本改造法案大綱』に心服していた紛れもない超国家主義者であった中谷からこうした発想が生まれているあたりが、最初に述べた橋川文三的関心を引くところなのである(なお、後年は憲法改正論を主張している。ただ、中曽根康弘も1949年4月衆議院本会議で“新憲法擁護・戦争放棄・絶対平和主義・永世中立”を説いており、朝鮮戦争後憲法改正論を説きだしているから、こうした変化は中谷だけに起きたことではない。ガンディーの非暴力主義を説いた点が独自なのである)。

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