幾度も入牢した思想家
活動自体は小さなものであったが反響を呼び、内務省から治安に妨害ありとして結社禁止を命じられ入牢。その後、曲折を経て郷里大和五條に戻り、日本に亡命した朝鮮開化派の金玉均の支援を始めた。それは85年、大井憲太郎らとの大阪事件になり、長崎で逮捕される。
出獄後、今度は条約改正問題で出版条例違反や官吏侮辱罪等に問われ入牢したが、奈良に戻り92年第2回総選挙に立候補当選している(第3回総選挙では立候補しなかった)。
そして90年に『大東合邦論』を発表した。「わが日韓、よろしく先に合して清国と合縦し、もって異種人の侮を禦(ふせ)ぐべし」という主張であった。
その後、社会主義活動を活発化させたりもしたが、1900年代に入ると中国朝鮮との関係が活発化。とくに大韓帝国で日韓合邦を目指す一進会が結成され、その会長李容九が『大東合邦論』に注目したので樽井は京城に滞在するなど関係は深まった。実際の日韓併合と樽井らは一致するわけではなかったが、そのあたりはあまり自覚的ではなかったらしい。
最晩年は、17年に五條での明治維新発祥記念銅標建設を計画するなどして、22年生涯を閉じる。
最後に難解な樽井の思想分析が行われており、『大東合邦論』については日朝両国が現場のまま「合邦」するのではなく、あるべき国家へ変わりながら「合邦」を目指すべきことが記されていたことを重要視すべきではないかと指摘されている。
正確な実証により研究を確実に前進させる著者らしい優れた成果であった。
なお、著者は、樽井の思想の検討にあたり、国内については国家社会主義、国外との関連ではアジア主義が現れ、両者が結び付く中で国内国外双方の格差是正を目指す思想=インペリアル・デモクラシーを提起しており興味深いが、評者が提起した昭和維新運動の特質と同じ種類のもののようにも思われ(拙著『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館61頁)、教えを請いたいところである。