対中外交を根本から変更したニクソン訪中
第二次世界大戦で日本が敗れた後、中国では国民党政権と中国共産党の「国共内戦」が勃発。蒋介石総統率いる国民党政権は毛沢東主席の共産党から攻撃を避けて台湾に逃れた。
国民党政権は、自らを「中国の正統政府」と主張したが、共産党は49年、北京で中華人民共和国の成立を宣言。日本は52年、サンフランシスコ平和条約発効によって独立を回復したのを機に、台湾の国民党政権と外交関係を樹立、北京政府とは疎遠な関係が続いた。
共産勢力の浸透をおそれていたこと、米国が国民党政権と外交関係を維持していたことに加え、蒋介石総統が敗戦国日本に対して「以徳報怨」(徳を以て怨みに報いる)として賠償金放棄など寛大な処遇をしてくれたことへの感謝、義理立てする意味合いも少なからずあった。
60年代になって、中国と外交関係を樹立し、台湾と断交する国が相次ぎ、国際政治における中国の存在感が増してきた。ニクソン政権が、それまでの「封じ込め」から「関与政策」へと対中方針を大きく変更したのは、こうした事情を背景に、いずれ中国抜きに外交政策を立案、遂行することは不可能になるだろうとの判断に傾いたためだ。それを主導したのがキッシンジャー補佐官だった。
日本頭越しに悔恨の念も
「同盟国の日本をないがしろにした」という非難に対して、キッシンジャー氏本人はどう説明したのか。自身の回想録から引用する。
「日本は習慣として秘密を保持できない」として日本の情報管理の甘さを指摘しながら、一方では、「佐藤栄作首相は、信頼できる友人だった。友好強化に努力した人物を困らせたくはなかった」と苦しい判断だったことを吐露。
「事前の協議はできなかったにせよ、日本への通告にもっと分別ある方法をとることができた。北京に同行した部下を東京に派遣し(発表の)数時間前に伝えていたら礼儀にかなっていたろう」とも述べ、悔恨の念を表明している。(『キッシンジャー秘録』第三巻「北京へ飛ぶ」、80年、小学館、211~212頁)
発表の数週間前でも数カ月前でもなく、「数時間」で「礼儀にかなう」と考えるのは、いかにも米国の国益だけを追求する現実主義者のキッシンジャー氏らしい。日本への通告が、わずか「数時間」早まったところで、日本側の困惑、衝撃に変わるところはなかっただろう。
米を出し抜いた日中国交正常化には不快感
キッシンジャー訪中が引き金になって、その年秋の国連総会で「中国招請、国民党政権追放」の決議案が採択され、戦勝国として安全保障理事会常任理事国の一角を占めていた台湾がニューヨークを去った。
翌年には、佐藤栄作氏の後継、田中角栄首相が、米国に先がけて、日中国交正常化を断行する。当時の日本にとって、米国の了解なしに外交政策を大きく転換することは極めて異例だった。
日本が米国をいわば出し抜いたことにキッシンジャー氏は強い不快感を抱き、後にロッキード事件で田中角栄氏が刑事訴追された際、氏が一役買ったという真偽不明の憶測を生むことになる。
自ら日本を無視して中国と接近しながら、日本が米国に先んじて国交正常化を断行したことには反発する――。これまた「現実主義者」らしい反応というべきだろう。