当時も発災直後は携帯電話も通じなかった。筆者らは、アフガン等の国際支援を行う団体が持っている衛星携帯電話を借用して東京と連絡を取ることができた時期もあった。
必要な物はその時によって違う
発災後、1~2週間もすると食料や水、簡易トイレ、栄養剤などは足りてくる。電力会社の発電車が運ばれたりして電気もついたりする。今日、各種レトルト食品にはけっこう高級なものも多いし栄養もそれで足りる。
それなのに私たちは炊き出しを実施する。なぜなのか。家を失い、家族や友人を失い、不自由な避難所生活を送る被災者にとっては、温かい手作りのスープや味噌汁は喜ばれる。だから大量の炊事に適さない公民館や体育館でもあえて炊き出しを実施しようということになる。
このころになって他県から大量の食料が届いても消化しきれない場合も多い。それでも感謝して受け取る。
筆者らは南三陸町の体育館で物資の受け取りと各避難所への配送作業の一端を分担したことがあるが、発災後ひと月もすると、体育館が支援物資でいっぱいになって被災者が暮らす場がなくなることもあった。それでも届いた物資は受け取る。気持ちはありがたいのだ。
物資を送る側は、同じ品目でもタイミングによって必要か不要かが違うことを知るべきだ。そのような事情は現地によって違うので、先遣隊を送る等によって調べることが大切だ。
阪神淡路大震災のとき、筆者は都庁で高齢福祉部長だった。被災地で介護従事者が不足だということを知って、東京で特別養護老人ホームを営む社会福祉法人は、介護チームを編成して現地に次々と送った。とても喜ばれた記憶がある。刻々と必要なものが変わっていくので、被災者のニーズや気持ちに寄り添ったきめ細かい支援が求められる。
自治体の役割
被災者は、不自由な避難生活を送りながら、住んでいた家や地域に帰ることができるかどうか、深刻に悩んでいる場合が多い。2015年、鹿児島県口永良部島噴火による全島避難の際、物資が豊富で避難生活をしやすい鹿児島市等ではなく、近くの島に避難した人も多くいた。
住民は、少しでも早く自分が住んでいた地域に帰りたいから近くに避難する傾向がある。そのような思いに応えるためにも、インフラやライフラインの回復が重要となる。
筆者は2000年の三宅島噴火による全島避難のとき、東京都の副知事として現地対策本部長を務めたが、噴火によって大量の火山灰が降り積もった島を往来するためにはまず、港や道路を回復しなければならなかった。
港を浚渫して作業のための船が入港できるようにし、重機によって道路上の火山灰を取り除き、橋を補修し、ダンプ等を荷揚げして砂防ダムの建設をする。これらを火山の動きや天候を見ながら実施することになる。根気のいる仕事である。
その後に電気、水道などライフラインの回復、人々の家や島内の公共建築物の補強が始まる。三宅島が危険なときは30キロメートル余離れた神津島に現地本部をおき、船で三宅島に渡って作業を継続した。