クルーズ船の名前はソ連のスパイ『リヒャルト・ゾルゲ』
2003年初夏、週末のモスクワ川クルーズを楽しんだ。当時はプーチン大統領の剛腕により治安も回復し経済も漸く安定し始めた時期であった。モスクワ川のクルーズ船発着ターミナルには大小様々なクルーズ船がひしめいていた。
金曜夕刻出発して日曜日午後モスクワに戻る2泊3日のクルーズ。金曜日夕食から日曜日昼食までのフルコースの食事つきで二段ベッドの4人部屋でクルーズ代金が100ドル弱であった。これは外国人料金なのでロシア人客は半分以下であろう。
モスクワ川と運河や湖沼をつないでボルガ川支流に至るルートでありスズタリ、ウラジミールなど『金の環』と呼ばれる美しい古都に寄港する。ロシア正教をロシア国民統合に政治利用せんとするプーチン政権の支援で古都の由緒ある教会・聖堂・修道院は金ぴかに修復されていた。
クルーズ船は500トンくらいで上甲板デッキでは夕刻になるとバンド演奏に合わせてロシアンダンスが始まる。初夏の白夜の森林や湖沼を眺めているとウオッカの酔いも手伝ってロシアの大地に溶け込んだような夢心地となった。
至福のクルーズが終わって下船する時に、船長室の横に飾られている真新しい1メートル四方もある肖像写真に気付いた。横に掲示されているクルーズ船の命名の由来(ロシア語と英語の併記)を読んでビックリ。なんとクルーズ船の船名は『リヒャルト・ゾルゲ号』で立派な肖像写真はゾルゲであった。
ゾルゲはロシア系ドイツ人。1933年~1941年までドイツの新聞社の東京特派員という身分を使ってソ連共産党の司令の下で諜報活動をした伝説のスパイである。最後は特高警察に逮捕され処刑された。
ゾルゲが日本にはソ連侵攻の意図はないという情報をスターリンに送った結果、ソ連はシベリア・極東の師団を対独戦線に送って勝利することができた。ちなみにソ連邦時代から現在に至るまで駐日大使が東京に着任すると東京多磨霊園にあるゾルゲの墓に墓参するのが習わしとなっているという。
日本人は自虐的歴史観の影響があるのか、政治家が愛国心を語るとネガティブに受け取ることが多いが、ロシア人にとり愛国心=祖国愛である。例えばプーチンは、モンゴル訪問時に真っ先にノモンハン事件で日本軍を駆逐したジューコフ将軍記念館(ウランバートル市の高台にある)を訪れている。ジューコフ将軍はロシア人2000万人(一説には2700万人)が犠牲になった独ソ戦を勝利に導いたソ連邦国家英雄である。プーチンは意識的にロシア人の愛国心を煽り自ら愛国者であると印象操作をしているのだ。
ノーメンクラツーラ(赤い貴族)が牛耳るロシア行政とプーチン政権
しばしばプーチン政権は、治安機関や警察などを掌握して、経済的にはオリガルヒと結びついているので、政権基盤が安定していると言われる。筆者はさらにノーメンクラツーラ(ソ連邦時代の行政機関の特権的エリート階級。赤い貴族とも呼ばれた)の末裔がソ連邦からロシアに変わっても実権を握りプーチン政権を支えていることも指摘したい。
2003年夏、債権回収のために接触を重ねていた某銀行頭取から大蔵省高官を紹介したいと提案があり頭取・高官と勤務先商社のモスクワ支店長と日本料理レストランの個室でランチをした。
当時債権回収交渉は行き詰まっていた。そんな中で大蔵省の実務担当者から紹介されたのが某銀行である。頭取は50歳前で若く風貌がクリントン大統領に似ておりロシア人には見えない。彼の経歴を調べても金融関係の経験はない。そもそも某銀行は職員が数名しかいない幽霊会社のような組織だった。
紹介された高官は40代前半のガガーリン少佐を彷彿とさせる金髪碧眼のハンサム。ロシア人にしては珍しく完璧なキングス・イングリッシュ。聞くと英国の寄宿学校を卒業してモスクワの国際関係大学を卒業という。外交官だった父親が英国大使館勤務時代に寄宿学校に入学したという。出された名刺の肩書は次官級。
高官一家はスターリン時代の祖父の代からモスクワの一等地のゴーリキー通りの高級アパートで暮らしてきたノーメンクラツーラだった。国際関係大学卒業後はソ連邦対外貿易公団で海外勤務を経験という超エリート・コース。その間にギリシアの海運王オナシス一族、スペインの元国際オリンピック会長のサマランチ始め各国の有力者と人脈を形成。ソ連邦崩壊後は国際経験を買われて大蔵省に移ったという経歴。
高官は「某銀行頭取を通じて債権回収申請手続きを完了すれば、大蔵省内の許可は問題なく下りますよ」と何事でもないように明るく微笑みながら請け負った。直感で高官の言葉の意味が理解できた。祖父の代からのノーメンクラツーラの高官はプーチン政権上層部と利権で繋がっていたのだ。