プーチンがなぜ高い支持率を継続しているのか
3月17日のロシアの大統領選挙を前にプーチン政権がなぜ高支持率を維持できているのか、専門家がこぞって指摘しているのが、ロシア人の大多数がプーチン政権下での安定したロシアを望んでいるという点である。筆者も全く同感である。
ソ連崩壊後からエリツィン時代を通じて十数年続いた経済破綻(マイナス成長+人口減)とチェチェン独立派テロによる社会不安を剛腕により短期間で立て直し、安定して強い新生ロシアをもたらしたというプーチン神話である。
筆者は商社勤務時代の2001年~2003年、つまりプーチン政権の初期の時代に数カ月に1回程度の頻度でロシアに出張した。ソビエト連邦時代に輸出した機械設備などの債権回収が目的であった。1回の出張は10日から数週間程度であったので、平日の夜や土日の自由時間を利用して見聞を広めることができた。おそらくガイドブックに載っているモスクワ市内や近郊の名所・旧跡の大半は踏破したのではないだろうか。
筆者が垣間見たロシア社会の断片を振り返って現在のプーチン政権とロシア国民の意識について考えてみたい。
物売りで糊口を凌ぐ年金生活者
2001年春の最初のモスクワ出張ではソ連崩壊後の悲惨な日常生活に驚いた。第一印象は街なかに“ホームレスが多い”。そして商店にほとんど商品がない。ガラガラの陳列棚が並ぶモスクワの目抜き通り。地下鉄や近郊電車の車内ではホームレスが各車両をまわって物乞いし、失業青年が入れ代わり立ち代わりボールペン、小型懐中電灯、カッターナイフなど安物中国雑貨を持って売り歩いていた。
町中に雪が残り日中でも零下になる季節だが地下鉄入口や高架下やビルの軒下など多少でも風雨が防げる場所は物売りの人々で占拠されていた。茣蓙やビニールシートに雑多な品物を並べている。ハイパーインフレで年金生活が破綻した高齢者が大半だ。自宅から骨董品・絵画、家電製品、文房具、鍋釜包丁に至る生活用品まで売れそうなモノを全て持ち出して路上で物売りしている。ソ連邦時代に授与されたメダルや盾の類、毛皮のコート、本・古雑誌も定番だ。生まれたばかりの子猫すらも売られていた。
ブレジネフ時代が私の人生で一番幸せだった
2001年春。当時筆者が勤務していた商社のモスクワ支店長は、彼の秘書は機転が利いて仕事が早いと評価していた。支店長が仕事の問題点について説明すると、秘書は関係政府機関に片っ端から電話してキーパーソンを見つけ出してアポを取ってくれるという。支店長によると秘書の中年女性は以前KGBで働いていたので政府機関に伝手があるとのことだった。
女性秘書と雑談していたら、彼女の旦那も元KGB職員で電波通信関係の技師だった。ソ連邦時代のKBGはエリート組織で給与・住宅などの待遇もよかったらしい。モスクワ市内の職員アパートは設備が良く快適だったと懐かしんだ。そしてブレジネフ書記長時代(注:1964年~1982年)は経済が安定し生活も豊かだったと回想。
特に1970年代後半のキューバのハバナ駐在時代が最高だったようだ。週末にはハバナ近郊のビーチのソ連邦職員専用クラブで夢のような休日を過ごしたと語った。ちなみに旦那は米国の電波傍受をしていたようだ。
女性秘書は2001年当時のプーチン大統領の精力的な仕事ぶりを大いに評価してプーチンがブレジネフ時代の栄光を再現することを熱望していた。ロシアの世論調査では『尊敬する偉大な政治家・指導者』としてピョートル大帝、スターリン、プーチンと並んで必ずブレジネフが上位に入る。いずれにせよ長期安定政権を担った強権的独裁的政治家がロシア人のお気に入りなのだ。
制服警察官には気をつけろ
2001年から2002年冬頃までは毎回出張するたびに制服警察官のタカリ・強請りにあった。警察官もインフレ下で生活が苦しいのだろう。夕暮れ時に人通りの少ない道を歩いているとどこからともなく警察官が近寄って来てカタコト英語でパスポートを出せという。パスポートを渡すとドル紙幣を握らせるまでパスポートを返してくれないので渋々20~30ドルくらい渡す。
パスポートを持参してなかった時は警察署まで連行すると脅された。相場があるらしく50ドルを要求されたが40ドルで簡便してもらった。昼間でも人通りの少ない道では制服警官が待ち伏せしているので人通りのある道を選んで警察官を避けて歩いていた。