発刊に際し、第二章『制裁下のモスクワへ』を、全6回の連載にて全文公開いたします。
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モスクワ郊外のシェレメチェボ空港を出ると、通りには、色とりどりの花が咲き香っていた。抜けるような青い空が広がって、日差しがまぶしかった。気温も暖かく、厚手の上着はもういらなかった。
厳しく、長い冬を終えて、木々が一斉に葉を茂らせる5月は、ロシアを訪れるには最良の時期だ。そのあまりに美しい景色を前にすると、この国が今、隣国に侵略戦争を仕掛け、世界中に大混乱を引き起こしているのだとは、夢にも思えなかった。
2022年5月下旬、私は戦争を仕掛けた側のロシアに約2週間出張する機会を得た。2018年1月にモスクワ特派員の任を終えてから、約4年半ぶりのロシア訪問だった。
空港から市内に車で向かったが、郊外型のショッピングモールや外資系の自動車販売店などは以前と変わらず営業を続けていて、時には多くの客であふれていた。ロシアの首都であるモスクワの、ごく普通の景色だった。
しかし、人々の心の中は、4年前と同じ状況とは言い難かった。
「今はね、何もしゃべらないほうがいいのよ。何かをしゃべるには、あまりにも危険だわ」
アンナと名乗る20代の女性は、市内のある場所で、そう静かに切り出した。周囲に人がいないタイミングで、私は「この戦争についてどう思いますか」と尋ねた。人がいれば、本当の答えは得られないと感じたからだ。彼女は質問に少し戸惑った表情を見せたが、答えは率直だった。
「好きだったスターバックスも閉店してしまったわ。海外から来た品々は、手が届かないほど高くなってしまった。でもね、私は思うの。〝当然よね〟って」
彼女はロシアが侵略戦争を仕掛けている現状を、強く認識していた。その結果として、ロシアが欧米諸国から制裁を受けることも、やむを得ないと思っていたのだ。
ロシア国民の8割は戦争に賛成──こんな社会調査の結果が海外でも報じられていた。アンナのような人は、ロシアの人口全体から見れば決して多数派ではなかっただろう。しかし、ロシアが戦争を起こしている事実を冷静に認識し、その結果として受ける不利益を「やむを得ない」と考える人々は、確かにいた。
ただ彼女は「危険すぎる」と判断して、社会に対してもじっと「沈黙」していた。
これはごく当たり前のことだった。戦争への反対姿勢を鮮明にし、開戦直後に路上でのデモなどの反対活動を行った人々には、残酷な仕打ちが待っていたからだ。この時点ですでに、ロシア国内では1万5000人以上の人々が治安部隊の手で拘束されていた。
サンクトペテルブルクに住む私のロシア人の友人は、デモに参加したというだけの理由で、姪が「2週間以上留置場に入れられて、まだ出られていない」と明かしてくれた。
私が訪露した際は、モスクワ市内の中心部でも、地下鉄駅などを警備する警察官の姿はごくわずかだった。開戦直後は1駅あたりに何人もの警官が、入念な警備にあたっていたという。警官らを見かけても、彼らはリラックスしていた様子だった。しかしそれは、人々が反戦活動をあきらめ、多くはアンナのように〝沈黙〟し始めたことの表れであった。
戦争は同時に、多くの若者が戦地に向かうことを意味する。若者らの心は、その恐怖に強く苛まれていた。