2023年5月9日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はモスクワ中心部「赤の広場」で開催された第二次世界大戦の対独戦勝記念日に合わせて演説し、ウクライナ侵攻をナチス・ドイツとの戦いと同じ「祖国防衛戦」であると位置づけた。
また「日本の軍国主義と戦った中国兵らの功績を記憶し、敬意を表する」と言及して、ロシア寄りの姿勢を見せる中国への配慮を示した。
これらはロシアの歴史認識において、第二次世界大戦の戦勝国としての輝かしい栄光が「偉大なる戦勝体験」として深く刻み込まれていることを表しており、侵攻の長期化を見据えて、それに固執しているようにも映る。そして日本の軍国主義との戦いの具体例として挙げられるのが、ノモンハン事件である。
日本では「ノモンハン事件」、ロシアやモンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれることの多いこの戦いは、1939年5〜9月の約4カ月間にわたり、日本・満州国軍とソ連・モンゴル(蒙)軍との間で繰り広げられた激しい近代戦であった。
この戦いの主な原因は満蒙国境をめぐる日ソ間の認識の相違と考えられ、日満軍がモンゴル東部のハルハ河を、ソ蒙軍がハルハ河の東方約13キロメートルを国境線と認識していたことに起因するとされる。
そしてこれら2つの呼称が示すように、ノモンハン事件はハルハ河東岸に位置するノモンハン・ブルド・オボー(チベット仏教の聖者塚)一帯で行われ、両陣営とも3万人以上の大規模兵力が動員されたものの、日ソ両国政府が宣戦布告をしなかったため、全面戦争には至らなかった。
ノモンハン事件はこれまで極東国際軍事裁判(東京裁判)の影響などにより、日本の参謀本部の不拡大方針を無視した現地の関東軍が、「膺懲活動(征伐して懲らしめる)」の名の下に満蒙国境を「越境」して紛争を惹起・拡大させ、戦車や装甲車などを装備したソ連軍の反撃を受けて、日本側が一方的に大敗したと理解される傾向が強かった。
このためソ連では「カンネーの戦い」(紀元前216年にカルタゴ軍のハンニバル将軍が兵力で上回るローマ軍に勝利した伝説的な戦い)の再来として語られ、これは冷戦時代に同じ社会主義陣営に属したソ連とモンゴル人民共和国の間での、共闘して日本の軍国主義に勝利したという歴史認識の形成にも寄与したとされる。