他方、近年の研究成果によると、ノモンハン事件は日ソ両国ともに数多くの死傷者を出したことが明らかにされている。
ロシア軍事科学アカデミー元教授のグリゴリー・クリボシェーエフ氏によれば、ソ連側の死傷者数はソ連解体後の史料公開などの影響で大幅に増加して2万5655人とされている。これは現代史家の秦郁彦氏による日本側の死傷者数の推計である約1万8000~2万人までを大きく上回っている。
また国内外の公文書史料などを駆使してノモンハン事件の国際的文脈を解明する研究成果も多角的かつ幅広い知見をもたらしており、ノモンハン事件の研究は今まさに新たな段階を迎えている。
緊迫する極東
繰り広げられた「角力(すもう)」
戦間期の日ソ関係の始まりは、ロシア革命後のソビエト政権の誕生と、1918年8月のシベリア出兵および北樺太「保障占領」であった。
これは連合国陣営の「チェコスロバキア軍団」の救出を大義名分として日本軍が大規模派兵した対ソ干渉戦争であったが、地政学的には日露戦争後の南満州鉄道(満鉄)の設立をはじめとした大陸権益の確保と、極東での日ソ両国の勢力圏争いの様相を呈した。
この点に関して、日本陸軍の対ソ諜報活動の祖であり、「特務機関」の名付け親となった高柳保太郎氏は自著『満蒙の情勢:荻川漫筆』(満蒙文化協会)において、「露国は何処までも破壊の斧を揮わんとし、我邦はこれに対して国際道徳の堅塁を守る、一進一退、そこにこの角力の面白さを味わふべく、またそれが世界の対露観念に至大の教訓を與うる」と、互いに主義の反する日ソ交渉の難しさを指摘している。
日ソ関係はその後、満州事変および満州国建国により緊迫化し、日ソ間・満ソ間では満蒙権益の確保をめぐる係争が間断なく続けられた。35〜39年の間、満ソ国境では実に2〜3日に1回の頻度で武力紛争が起きた。
日ソ間の軍事的対立は、36年8月に広田弘毅内閣で決定された外交・軍事に関する基本方針「国策の基準」に反映され、極東のソ連兵力に対抗するために先制主義・短期決戦を軍事戦略の基本とすることが定められた。
近年の研究成果として注目されるのは、満州事変後のソ連の外交・安全保障戦略の確立である。ソ連指導部は関東軍の侵攻に備えるために極東防衛に大きな関心を払い、第二次五カ年計画に基づいてソ連軍の大幅な兵力増員や技術装備の強化などを行い、軍の近代化を段階的に達成した。
また極東地域において大規模な軍事インフラを建設するとともに、極東軍管区やザバイカル軍管区の設立に代表される軍事再編を実施した。
さらに外交政策では、日独両国による東西国境への挟撃という危機的状況を回避するため、自国の軍事力増強だけでなく中国国民政府やモンゴル人民共和国との軍事同盟を締結することで、極東アジアでの集団安全保障体制を形成した。