特に36年3月に締結されたソ蒙相互援助議定書は、ソ蒙両国の軍事協力を軍事同盟に近いものに発展させ、同議定書に基づいてモンゴル国内へのソ連軍の駐留が開始された。これらはノモンハン事件におけるソ蒙軍の作戦と兵站の両立につながり、ソ蒙軍の勝利のための重要な要因となった。
39年8月20日にソ蒙軍による包囲殲滅作戦が遂行され、日満軍は壊滅的打撃を受けた。加えて、8月23日には反目し合っていたはずの独ソ両国が独ソ不可侵条約を締結し、当時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職した。
米国の元国務長官であるヘンリー・キッシンジャー氏は自著『外交』(日本経済新聞社)の中で、38年9月のミュンヘン会談以降の自国利益を優先するソ連外交を、英仏両国とナチス・ドイツを交渉相手国として、ソ連に最も大きな対価をもたらす相手国との同盟を追求した「バザールの商人」であったと表現したが、ソ連はまさに極東での軍事的勝利と欧州での外交的勝利により、自国の勢力圏拡大を果たした。
9月上旬、モスクワではヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員と東郷茂徳駐ソ大使による停戦交渉が進められ、9月15日に日ソ停戦協定が締結された。こうして4カ月間に及んだノモンハン事件は終結した。ノモンハン事件は大規模兵力の動員、死傷者数の甚大さ、国際的衝撃の大きさに鑑みて、まさに「宣戦布告なき戦争」と呼ぶにふさわしい戦いであった。
中立条約締結へ
日ソ関係の「一進一退」
ノモンハン事件後、日本政府はソ連に対する戦略的認識を大きく変化させ、陸軍省や外務省を中心としてソ連を中立化する動きが促進された。
こうした外交路線は40年7月に成立した第二次近衛文麿内閣にも引き継がれ、7月27日の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」では、独伊両国との政治的結束を強化するとともに「対ソ国交ノ飛躍的調整」を図ることが目指された。
ソ連との国交調整は日独伊三国同盟の締結後も、松岡洋右外相の「日独伊ソ四国協商」構想に支えられながら、41年4月の日ソ中立条約の締結という形で結実した。
以上のように、この時期の日ソ関係は共通の政治的思惑や価値観を共有していたわけではないものの、双方の権益を認め合うという利害の一致を見出していた。これは日露関係史の中で見られた、日露戦争とその後の四次にわたる日露協約の締結のように、まさに外交と安全保障をめぐる「一進一退」を繰り広げたのである。
こうした大国間関係を基調とした外交・安全保障戦略は、現代ロシアの中でも生き続けているといえるが、今般のウクライナ侵攻はその一線を超えてしまったように思われる。