キャノンとマツイがともに李に接触した記録も残っていた。キャノンは「李は何年にもわたって複数の分野でCICと頻繁に接触してきた」。
「他殺説」の決定打
元キャノン機関の最後の生き残りである、アロンゾ・シャタックとも、亡くなる5カ月前にインタビューに成功している。
「キャノン機関では、共産党員がどんな活動をしているのか可能な限りの計画や情報を収集していた。“二重スパイ”と呼ばれる作戦も展開していた」
「最新の無線装置を利用して、私たちが仕込んだ偽情報を無線で送りました。ソビエトには事実ではない情報を流したのです」
取材班が、李の写真を示して「覚えていますか?」と尋ねると次のように答えた。
「たぶん、彼と面識があると思います。私が犯罪捜査局(CID)にいたころ、キャノンと一緒にさまざまなようで横浜のCICをよく訪ねていました」
「他殺説」の決定打となるのは、キャノン機関の幹部だったアーサー・フジナミ氏(2020年、101歳で没)の娘のナオミさんが生前のフジナミ氏が日本でどのような活動をしていたのか、詳細なメモをとっていたものが残っていたことだろう。
「戦地から帰国した日本人を対象に諜報活動を行っていました。CICは共産主義が日本に蔓延(まんえん)するのを懸念していました」
「国鉄総裁が共産主義に加担しないか疑い尋問した。その後、総裁は暗殺されました」
取材チームが「暗殺」という言葉について、娘のナオミさんに確認すると「私が聞いていないことを書くはずはありません」
口を閉ざした日本人記者
最後に「下山事件」の真相に迫った、読売新聞の鑓水徹記者の話で締めよう。鑓水記者は児玉誉志夫氏と親しく、真相をほぼつかんでいたと思われる。布施検事との面談をいったんは約束したものの実現しなかった。
息子の洋さんが証言する。
「息子の僕たちには『あれは米軍の力による殺人だった』と断言していました」
「朝鮮戦争が起きるというか、起こすのが前提で米国側は準備をしていた。その当時(戦前の鉄道省から)日本国有鉄道になったばかりの国鉄を米国は自由に使う必要があったということで、どうも下山総裁のほうに圧力がかかった、(というのが、父の)話だった」
洋さんによると、鑓水記者は凶器で脅されたという。「物書きを辞めるか、どうかを選べ」と。
「私たち家族がありますし、家族の事と物書きを天秤にかけざるを得ない状況がおこって、その時に親父の決断としてはもちろん家族を守る」
鑓水さんは記者を辞めて、2017年に96歳で亡くなるまで、「下山事件」について公的に語ることはなかった。
「下山事件」後のことについても、番組を引用しなければならない。
職員10万人の解雇は大きな抵抗もなくおわった。1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。国鉄がその後2週間で運んだ客車は7324両、貨車は5208両だった。戦時動員としては国鉄史上最大である。
「未解決事件 File.10下山事件」の書籍化が望まれる。