2024年6月20日(木)

絵画のヒストリア

2024年5月12日

藤田につけられた「戦争協力画家」というレッテル

 藤田嗣治は神奈川県津久井郡小淵村藤野(現相模原市)で敗戦を迎えた。

 進駐軍の占領がはじまってからほどなくして、夫人の君代と住まっている疎開先の農家に一台のジープが土煙をたてて、はるばる東京からやってきた。パリ時代の画家仲間でGHQ(連合国総司令部)のメンバーとして米国から来日したバース・ミュラーである。

 「日本の戦争画を集めて米国で展覧会を開きたい」

 ミュラーの提案を聞いた藤田は、渡りに船と戦地へ動員された自身や仲間の画家たちが描いた戦争画の回収に動き出した。マッカーサーの占領下、画壇には「戦争協力」をめぐって〈戦犯〉指名への疑心暗鬼が広がっていたが、かつて「陸軍美術協会」の会長まで務めた巨匠の視野には、それは遠い稲妻のようなものであったに違いない。

 しかし、〈戦後〉の逆風が彼を取り巻きはじめた。

 「美術家の節操」と題して、画家の宮田重雄が新聞紙上で藤田批判の狼煙を上げた。

 〈曰く藤田嗣治、曰く猪熊弦一郎、曰く鶴田吾郎。これ等の人たちはひとも知る、率先、陸軍美術協会の牛耳を採って、戦争中ファシズムに便乗した人たちではないか。まさか戦争犯罪者も美術家までは及ぶまいが、作家的良心あらば、ここは暫く筆を折って謹慎すべき時である。今更どの面下げて、進駐軍への日本美術紹介の労などとれるか〉(1946年10月14日付『朝日新聞』所載)

 藤田は反論した。

 〈偶偶開戦の大詔渙発せらるるや一億国民は悉く戦争完遂に協力し、画家の多数も共に国民的義務を遂行したに過ぎない。戦争中国家への純粋なる愛情を以て仕事を成した画家は勿論、凡ての画家も今敗戦の事実に直面し、心からの謙譲と良心とを以てその敗因を正視し反省し、軍官によって成された世界観とその指導との誤れる今日迄の国家の方針を一蹴して世界平和と真の美への探求をきわめ、精一杯の勉強を成さねばならぬと思う〉(同10月25日付『画家の良心』)

 GHQは翌年5月に開く東京裁判へ向けて、陸海軍はもちろん政財界や学術、思想界などの指導者を〈戦犯〉として訴追する動きを急いでおり、美術界でも戦争協力で指導的立場にあった人物が対象となる不安が高まりつつあった。

 疎開先から戻って、東京西郊の練馬に居を移した藤田のもとを旧知の画家、内田巌が訪れたのは、紙上でこの〈戦犯論争〉がたたかわされていた時期と重なる。

 雨の降る晩、ともに戦争画を描いた仲間でもある画家の突然の訪問を喜んだ藤田は、自ら自転車で魚屋へ出向いて鮪を買い、これを肴に再会した内田と杯を交わした。

 ところが内田の表情がさえない。

 「実は」といって一枚の紙を懐から取り出すと、そこには日本美術会の書記長の名前で、藤田嗣治氏は「戦犯画家」として活動を自粛されたい、とある。

 「どうか先生、みんなに代わって罪を引き受けてください」と涙を流しながら懇願するする内田を前にして、藤田は悲憤慷慨した。

 「私は戦争発起人でもなく、捕虜虐待したわけでもなく、日本に火がついて燃え上がったから一生懸命消し止めようと力を尽くしただけだ。何が悪いのかわからないが、私が戦犯と決まるなら服しましょう。死も畏れないが、出来れば太平洋の孤島に流して貰って、紙と鉛筆だけ恵んでもらえれば幸いです」

 けっきょく美術界の〈戦犯指名〉は杞憂に終わったが、指導的な「戦争協力画家」という履歴は戦後の藤田にとって、まことに居心地の悪い空気を生んでいった。かつて「乳白色の裸体画」で「エコール・ド・パリの寵児」と喝采を浴びた巨匠であってみれば、祖国を離れて「フランスへ戻る」という選択肢のほかに、もはやとるべき道はない。


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