2024年11月21日(木)

絵画のヒストリア

2024年5月12日

 ところがフランス領事館に渡航の査証を申請して認められたものの、「戦犯画家」という風評はフランス本国でも取りざたされていて、渡航許可は一向に下りない。それならばと、藤田はGHQの人脈を介して一旦米国へ脱出し、ニューヨークのブルックリン美術学校の教授という身分を得てしばらく活動したのち、フランスへ入国するという戦略をたてた。かくして藤田が羽田空港からパンアメリカン航空機で米国へ向けて出発したのは、1949(昭和24)年3月10日であった。

 「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」

 空港へ見送りに来た十数人のかつての画家仲間たちに向かって、藤田はそう言った。

「米国人画家」として生きた国吉康雄

 〈戦犯〉として祖国を追われながら、昨日まで〈鬼畜〉と呼んだかつての敵国に何事もなかったように移り住むことができるのが、この画家のまことに不思議な器量なのである。ところが、藤田のオプティミズムは最初の〈亡命先〉とたのんだ米国で予期せぬ壁に突き当たった。ここも安住の地でないことを彼は知るのである。

 ニューヨークで空港に迎えに出た米国の友人たちが、あいさつもそこそこに伝えたのは、藤田の招聘を決めていたブルックリン美術館付属美術学校などが受け入れの「返上」を申し出てきたことである。この「藤田排斥」の中心となったのが、戦前に米国に移住した日系人画家として、西海岸やニューヨークで活躍していた国吉康雄である。

 夏堀全弘著の『藤田嗣治芸術試論』(三好企画)のなかで、晩年の藤田はこう回想している。

 〈この話が抑々でたところ、国吉氏が大いに邪魔を入れて、私が戦争中軍部に協力した、軍国主義だなどと、アメリカ美術連盟の主事かなんかの肩書で、美術学校も恐れを抱いて私を招聘してくれないことになった、といった。ニューヨーク、シカゴ辺の共産党の画家連中の反感で、私を締め出しにかかり、また私がこの土地で地盤を築くことを国吉氏は恐れて、ブルックリンもニューヨークのモーガンスクールも非常な詫び状と残念だという手紙をもらった〉

国吉康雄(Peter A. Juley & Son, Public domain, via Wikimedia Commons)

 国吉康雄は16歳で故郷岡山を後に単身で渡米し、サンフランシスコやロサンゼルスで鉄道の洗車作業員や農家の果物摘みなどのかたわら美術学校に通って絵をまなんだ。米国は当時、西海岸を中心に日本からの移民がピークをなした。黄禍論が高まる厳しい環境の下、国吉は1922年にニューヨークのダニエル画廊で開いた個展で、東洋的な筆触と繊細なモダニズムがメディアに高く評価されて脚光を浴びる。

 世界恐慌が起きた29年、ニューヨーク近代美術館(MOMA)の「19人の現代アメリカ画家展」に選ばれて、国吉の名前は国際的にも知られるようになった。

 祖国を捨てて「米国人画家」として生きた国吉の足跡はしかし、留学先のフランスで「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれた藤田の栄光とは対照的に屈折している。

 西海岸を中心に移民した多くの日系人が日米開戦とともに強制収容所に収容されるなかで、国吉は「敵性外国人」の疑惑を免れて戦時下を「米国人画家」として生きた。その背景には、戦時下の彼が積極的に米国の世論工作にかかわって日本の侵略戦争を批判したこともあった。

 国吉は米国戦時情報局(OWI)の対日宣伝放送にもかかわり、「アメリカは民主的な理念への確信を分かち持つがゆえに、ここに集まったあらゆる人種集団の国です。それは人民の大地です」と祖国日本に向かって呼びかけた。

 OWIは国吉に日本軍の残虐な虐待や拷問を描くポスターの制作も求めた。42年に中国を救済するためにニューヨークで開いた「国吉康雄回顧展」では、首都東京への空爆を容認する発言まで残している。戦時下とはいえ、過剰とも見える米国への同調と祖国への敵対は、すでに「米国人画家」として画壇の枢要な地位を占めつつあった国吉の一種の自己保身がもたらしたものであったのだろう。

国吉康雄「祭りは終わった」 (1947年、油彩・カンバス、岡山県立美術館)

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