三島由紀夫の〈蹶起〉と自裁の日から半世紀が近づいた秋、その現場となった東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部の旧庁舎、現在は敷地内を移転して再構築した「市ヶ谷記念館」の旧総監室を訪れる機会があった。
「あの日」に駆け出しの記者がそのバルコニーの前にたどり着いた時、すでに壇上に三島たちの姿はなく、集まった自衛官らはその場から三々五々散って、蹶起の主張を書き連ねた垂れ幕が晩秋の皓々とした光を浴びていた。そのころ、奥の総監室ではすべての事態が終わっていたのであろう。
記念館は戦前の陸軍士官学校本部であり、戦後東京裁判の法廷となった大講堂などとともに残された総監室は、かつての陸軍大臣室である。総監の執務机とその前の接客用の応接セットを除けば、それほどの余分な広さはない。この小さな空間で総監の監禁が行なわれ、救出のために封鎖された扉を蹴破って入室しようとした佐官らが、三島と「楯の会」のメンバーに次々と切り付けられて重傷を負った。
正午過ぎ、すぐ南面にあるバルコニーに降り立った三島は呼集された自衛官たちを前にして最後の演説を行い、「天皇陛下万歳」を唱えて総監室に舞い戻ると、その床に正座して割腹自決した。横に立った森田必勝が介錯した。いまも前室につながる扉に三島が救出の武官との攻防の際に日本刀で作った刀傷が遺り、半世紀を隔てた部屋の深々とした静寂を切り裂いている。
〝計画的〟に進められた〈蹶起〉
「楯の会」の制服に身を固めた三島が、四人の若者を従えて益田兼利総監に面会したのは午前11時すぎである。明るいカーキ色の服地の左右に六個ずつのボタンで飾った、見慣れない派手な制服姿の訪問に益田はいささか驚くが、以前からの約束であったので「よくいらっしゃいました」と迎えた。
着席した三島はそこで、手にしてきた室町末期の作という佩刀を披露する。
「そんなものを持ち歩いて、警察に咎められませんか」
益田がそのように三島にただしたのは、職務と場所から当然であったろう。
「これは美術品だから大丈夫です」
三島がそう説明して刃紋を磨くために、後方に控えた小賀正義に「ハンカチ」と命じたのが合図で、行動が起こされた。椅子の益田はそのまま後ろ手で両手首を縛られた。
「三島さん、冗談はよしなさい」といったその口も猿轡で拘束された。「楯の会」の隊員たちは内側から施錠した出入口に室内の家具を動かしてバリケードを作り、そこへ救出の自衛官らが体当たりして突入を試みる。
扉の一部が壊れてなだれ込んだ幕僚たちに、三島が立ちはだかって「出ろ!出ろ!」と咆哮する。刀が振り下ろされて、深い傷を負う人が相次いだ。
修羅場と呼ぶのがふさわしい。三島たちの要求でバルコニー下の広場に在庁する自衛官が呼集される一方、非常事態の通報で警察が出動する。正午過ぎ、三島は総監室からバルコニーに降り立って集まった自衛官たちを前に演説を始めた‥‥。