2024年11月22日(金)

絵画のヒストリア

2024年2月25日

「鼻をつまみながら通り過ぎた」戦後

 それにしても、『仮面の告白』に始まり、『金閣寺』や『青の時代』『鏡子の家』など、混沌の同時代を描いて(アプレゲール)の渦中を生き抜いて文壇の寵児となってゆく三島がなぜ、それほど「戦後」を呪って演劇的な自裁劇の演出と主役を演じたのだろうか。

 〈私の中の二十五年を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通り過ぎたのだ〉

 市谷駐屯地で割腹自決する四か月前、三島は新聞に書いた「私の中の二十五年」と題するエッセイで、戦後の四半世紀を振り返ってこのように認めている。

 「鼻をつまみながら通り過ぎた」という作家の〈戦後〉に対する回想は、おそらくその現実が物質的な繁栄のもたらす精神の空洞と人間の衰弱が放つ腐臭にあふれていた、という認識によるものであろう。つまり、彼はかりそめの平和と豊かな社会へ向かう〈戦後〉には顔を背けて生きた、というのだ。

 それは果たして彼の本当の心の裡から発した声であったのだろうか。文壇はもちろん、演劇や映画の制作と出演、ボディービルによる〈肉体改造〉などでマスメディアの寵児となり、東京・馬込に新築した白亜の豪邸に各界の貴顕淑女を招いた華やかな社交の中心にあって、三島が自信に満ちた哄笑を振りまく時代の偶像であったことは誰もが知るところである。

 翻訳された作品は欧米など海外でも評価が高まり、1965(昭和40)年にははじめてノーベル文学賞の有力候補に名前が挙がるのだから、戦後の腐臭から「鼻をつまみながら通り過ぎた」という自己認識と、現実の三島の水を得たような戦後の振る舞いとの乖離はいかにも過大である。

三島が戦後日本に描いていた「ロココ的な世界」

ヴァトー『シテール島への船出』(1717年、油彩・カンバス、パリ ルーヴル美術館)

 文壇の寵児として「戦後」を謳歌していた1954(昭和29)年、三島は「ワットオの〝シテエルへの船出〟」と題した美術評論を雑誌『芸術新潮』に執筆した。

 ワットオとは18世紀のフランスの画家、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーのことで、その優雅でどこかにアンニュイが漂う貴族たちの社交空間を描いた作品は雅宴図(フェート・ギャラント)と呼ばれて、ロココ時代の最後の輝きを伝えている。

 〈この「シテエルへの船出」にも、描かれているのはいつもの同じ黄昏、同じ樹下のつどい、同じ絹の煌めき、同じ音楽、同じ恋歌でありながら、そこにはおそろしいほど予感と不安が欠け、世界は必ず崩壊の一歩手前で止まり、そこで軽やかに安らうているのである〉

 小高い丘の上の木陰から半裸のヴィーナスが見守る中で、典雅な装いをこらした八組の男女が寄り添い、語らい、或いは手を取り合いながら歩いてゆく。周囲には春先の霞のような大気が漂っていて、その空にはキューピッドが舞っている。彼らは画面の前方の船着き場へ向かっているのだが、うっすらと広がる靄のような空気が見晴らしを遮っていて、定かには見えない。

 それは気まぐれな春の陽気がもたらした眺めという以上に、もっと深いこの時代の表徴のようにも映る。明日の日にどのような瓦解や崩落があろうとも、なんの疑念も幻滅もなく人々が優雅な恋の戯れにいそしみ、官能の花がほころぶ、18世紀のロココの時代精神である。

 フランスのロココ時代はルイ十四世の治世の晩期から一八世紀後葉の〈革命前夜〉にわたる時期に相当する。華麗で優美な曲線に彩られた建築や装飾に象徴されるロココの時代の社交空間は、同時に怪しい投機システムを財政改革に持ち込んで失敗したバブル経済の元祖のジョン・ローや、稀代の色事師として今日伝わるカザノヴァのような人物が、その歴史上の役回りとして記憶されている。

 砲声や流血に洗われる革命の気配はまだ遠い。ブルボン王朝にあらわれた貴族たちが、気品と優雅を競って最後の花を咲かせた旧体制の〈楽園〉の時代は、かたわらでこうした暗躍する山師や成金たちの野心と陰謀が渦巻く、むき出しの欲望の社会と背中合わせでもあった。


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