公立学校の教育内容についても同様である。州や都市が独自に決めることができるため、コロンブスについてどのように教えるかについても画一的に決まっているわけではない。すなわちコロンブスがアメリカ先住民の社会に壊滅的な打撃を与えた側面を強調するか、それともヨーロッパから苦難の航海の後アメリカに辿り着き、文明と文明の出会いをもたらした存在として肯定的に描くか、それは米国のどこの学校でコロンブスを学ぶか次第なのである。
ミュージックビデオはどのような意図があったのか?
翻って今回のミュージックビデオだが、コロンブスの日を連邦の祝日とする法案が通過した直後の70年代に発表されていれば何の問題もなかったかもしれない。このミュージックビデオが世に出たということは、制作・発表に携わった人々が、90年代以前の常識に基づいて判断しているということを示しているのかもしれない。
あるいは近年のトランプ対反トランプに象徴される価値観の対立を理解した上で、肯定的にコロンブスを評価する立場の表現であったとすれば、単なる伝わり方の違いや配慮不足ではなくなり、この出来事に対する見方はおのずと変わってくる。
更にこの問題を複雑にしているのは、コロンブスなどの白人役を、これまで歴史的に白人から「黄色いサル」と差別されてきた東洋人が演じ、白人の真似をして「類人猿」を教育しているように見える点である。それがどのような意味をもつかを意識していなかったとしたら、それはすなわち植民地主義における白人の視点を、差別されてきた東洋人が内面化していることになり、問題の根は一層深い。