また、習近平体制発足後、初の三中全会である2013年の第18期三中全会も、当時高く評価されていた。
関志雄「市場化改革の青写真を示した三中全会の「決定」」独立行政法人経済産業研究所公式サイト、2013年12月12日
(…)体制変革を阻む巨大な抵抗を向こうに回して、習近平は、利害も価値観も異なる党内諸勢力による統一戦線を結成して対抗しているのかもしれない。
津上俊哉「「中国共産党2.0」を目指す習近平の闘い」AJWフォーラム、2014年8月4日
関志雄氏と津上俊哉氏の2人がともに、習近平のラディカルな改革に期待しつつも抵抗勢力の反対を突破できるかが課題だというよく似た見立てをしている。
習近平総書記は就任当初、大きな期待を集めていた。その要因は複数ある。胡錦濤前総書記が実力不足で改革が停滞し汚職が蔓延していたという落胆から新たなトップが変えてくれるという願望も一つ。就任直後から取り組みが続く反汚職運動はその願望を強化するものとなった。
そして、改革派として知られた元勲の習仲勲の息子であること、習近平自身が文化大革命期に陝西省に7年間も下放(幹部や知識人を農村に送りこみ、労働を通じた思想改造を行うこと)された経歴があり、中国共産党の統治体制に恨みを持っているのではないかと期待されたことなど、数々の傍証が願望に拍車をかけた。
こうした政治改革への期待に加え、経済面からも停滞を打破する期待がかかっていた。13年の三中全会によってその期待は最高潮に達したと言える。
しかし、10年あまりが過ぎた今から振り返ると、この期待はなんだったのだという愕然とした思いにとらわれる。抵抗勢力に勝った負けた以前の話に、習近平総書記が改革を後退させている張本人なのではないかとの思いを持つ人も多いだろう。
果たして、習近平総書記は変節したのか。それとも、就任直後は改革派を装い、人々の期待と支持を集めて権力を確立した後に豹変するという策略だったのか。
期待がもたらした誤読
中国共産党の権力構造の変化はある。「早すぎる李克強の死 習近平との路線対立はあったのか?」(Wedge ONLINE、2023年11月6日)で取りあげたように、李克強前首相は「行政権限の縮小、管理強化、優良な行政サービスの提供」を意味する「放管服」政策の強力な推進者だったが、23年春の引退と同時にこの言葉は公式文書に用いられる数は減った。22年の党大会で誕生した、新たな体制は上層部を習近平子飼いの部下で固めており、より習近平総書記の”色“が打ち出されるようになったことは間違いない。
だが、そうした変化以上に見るべきは、「習近平総書記の路線は当初から現在まで一貫しているが、外部が誤読した」という可能性はないか。