2024年パリ・オリンピック(五輪)のボクシング女子に、2人の選手の出場資格に関する論争が影を落としている。
アルジェリアのイマネ・ケリフ選手と台湾の林郁婷(リン・ユティン)選手は、共に準決勝に進み、少なくとも銅メダル獲得が確実となっている。
しかし両選手とも、昨年の世界選手権で失格となっている。
昨年の世界大会を主催した国際ボクシング協会(IBA)は、両選手がジェンダー適格性資格検査で不合格となったと述べている。
IBAは5日にも記者会見を開き、「失格理由についての詳細な説明」をするとしている。
一方、国際オリンピック委員会(IOC)は、IBAの検査の信頼性に疑問を投げかけており、現在起きている論争は「時に政治的な動機による文化戦争」だと示唆している。
IOCは昨年6月、IBAの運営体制に懸念があるとして、同団体からボクシングの世界統括団体としての地位を剥奪(はくだつ)した。
一連の論争の背景を説明する。
IBAとは
IBA(旧称AIBA)は、アマチュアボクシングの世界的な統括団体として1946年に設立された。
IOCは2019年まで、IBAをこのスポーツの統括団体として承認していた。
IOCはなぜIBAを認めなくなったのか
IOCは2019年、IBAに運営上の問題や汚職疑惑があるとして、資格停止処分を科した。
これにより、2028年にボクシング競技自体が五輪からなくなる可能性が出てきた。
IBAに対する懸念とは
IBAは2018年、「業務と財務における重大な怠慢と財務上の不始末」が報告されたことを受け、呉経国元会長とキム・ホー元専務理事を終身出入り禁止処分とした。
呉氏は2017年10月に暫定的な資格停止処分を受けるまで、11年間にわたって会長を務めていた。
呉氏の後任にはガフール・ラヒモフ氏が選ばれた。米財務省はラヒモフ氏について「ウズベキスタンの主要な犯罪者の一人」だと説明している。
2020年には、ロシア人のウマル・クレムレフ氏が会長となった。
2022年には独立調査機関が、ボクシング競技において2016年のリオ五輪などで「歴史的な試合操作の文化」があったとする調査報告書を発表。五輪でのIBAの未来を守るため、倫理的な問題に取り組む必要があると指摘した。
この最終報告書の中でリチャード・マクラーレン教授は、数十年にわたる財政的な不正管理と欺瞞(ぎまん)、リング上でのルール違反、審判やジャッジ、職員に対する訓練と教育プログラムの不足について詳述した。
クレムレフ現会長とは
クレムレフ会長は、ロシア大統領府(クレムリン)と密接な関係にあるとみられている。クレムレフ氏の指導の下、IBAはロシアの国営エネルギー大手ガスプロムを主要スポンサーに迎えている。
2022年5月、オランダ・ボクシング協会のボリス・ファン・デア・フォルスト会長が不適格とされたため、クレムレフ氏は無投票で再選された。
その後、スポーツ仲裁裁判所(CAS)は、ファン・デア・フォルスト氏が立候補を不当に阻まれたと判断を下したが、IBA代表団は、選挙を改めて実施するという提案を拒否した。
IOCはこの結果について、「非常に懸念している」と反応。ファン・デア・フォルスト氏は、五輪におけるボクシングの将来を懸念しているとコメントした。
2023年世界選手権の背景
2023年の世界選手権は、女子は3月にインドで、男子は4月と5月にウズベキスタンでそれぞれ開催された。
ウクライナ侵攻後のIOCの指導に反し、IBAがロシアとベラルーシの選手が自国の国旗を掲げて出場することを認めたため、イギリスやアメリカを含む合計19カ国が大会をボイコットした。
クレムレフ氏は当時、選手権大会をボイコットした人々は「スポーツと文化の完全性」を侵害したため、「ハイエナやジャッカルよりもたちが悪い」と述べている。
イギリスのボクシング協会はこの時、国旗に関する問題は、「IOCが五輪におけるボクシングの地位を守るためにIBAに対処するよう要請したスポーツの完全性やガバナンス、透明性、財務管理などをめぐる重要かつ長年の問題に加える形で、IBAと五輪との距離をさらに引き離すもの」だと述べた。
世界選手権で何があったのか
こうした状況で始まった2023年の世界選手権では、ケリフ選手はウェルター級、林選手はフェザー級に出場した。
しかし中国の楊柳選手との決勝戦の数時間前、IBAはケリフ選手がジェンダー適格性資格検査で不合格だったと発表した。
ケリフ選手は準決勝でタイのチャンチェーム・スワンナーペン選手、準々決勝でウズベキスタンのナフバホル・ハミドワ選手を下していた。その前の試合では、ロシアのアザリア・アミネワ選手に勝利していた。
ケリフ選手の失格を受け、21歳のアミネワ選手が22回の試合経験で唯一付けた黒星が削除された。
一方、林選手はこの大会で、IBAから銅メダルを剥奪された。
IBAは両選手について、「IBAの規定で定められた、女子大会への参加資格を満たしていない」と説明した。
IBAの検査についてわかっていること
BBCはまだ、IBAの検査がどのようなものだったのか特定できていない。また、検査がどのように監督されたのかもわかっていない。
IBAのクリス・ロバーツ事務局長は1日、BBCのダン・ローアン・スポーツ担当編集長とのインタビューで、XY染色体が(ケリフ選手と林選手の)「両方のケース」で確認されたと述べた。
一方で、「異なる染色糸が関わっている」ためIBAはケリフ選手を「生物学的に男性」だと言うことはできないとした。
検査については、他の選手やコーチ、IBAの医療委員会から寄せられた「継続的な懸念 」を受けて実施されたと述べた。
IOCは、IBAの検査の正確性に疑問を呈している。
「(検査の)プロトコルがどうだったのか、検査が正確だったのか、この検査を信じるべきかどうか、私たちにはわからない」と、IOCのマーク・アダムズ報道官は述べた。
「検査が行われたことと、私たちがその検査の正確性あるいはプロトコルを受け入れるかどうかは、別問題だ」
2023年の検査をめぐる反応
IOCは1日に声明で、ケリフ選手と林選手は「IBAの突然かつ恣意(しい)的な決定の被害者だった」と述べた。
「IBAの2023年世界選手権の終盤に2人は突然、適切な手続きなしに失格とされた」とIOCは指摘した。
「IBAのウェブサイトに掲載されている議事録によると、検査の決定は当初、IBAの会長と事務局長のみによるものだった。IBA理事会はその内容を後から批准(ひじゅん)し、将来的に同様のケースに従う手順を確立し、IBA規則に反映させるよう要請したに過ぎない。議事録には、IBAは『ジェンダー検査に関する明確な手順を確立する』べきだとも書かれている」
「特に、この2人の選手が何年もトップレベルの競技に出場していたことを考えれば、この2人に現在向けられている攻撃は全て、適切な手続きなしに下された、恣意的な決定に基づいている」
「このようなやり方は、良い競技運営とは正反対のものだ」
一方のIBAは7月31日、世界選手権での決定は「競技の公正さと完全性を維持するため」だと発表した。
また、「2人はテストステロンの検査は受けなかったが、それとは別に認められた検査を受けた。検査の具体的な内容は秘密とする。この検査は、両選手が必要な資格基準を満たさず、他の女子競技者よりも競技上の優位性があることを決定的に示すものだった」と説明した。
IBAによると、林選手は失格を不服とせず、ケリフ選手がスポーツ仲裁裁判所に不服を申し立てたものの、後に取り下げた。このため「決定に法的拘束力が生じた」とIBAは説明している。
世界選手権後にIBAに起きたこと
2023年6月に開かれたIOCの臨時総会で、五輪委員70人のうち69人の賛成を得て、IBAの資格剥奪が決定された。
投票に先立ち、トーマス・バッハIOC会長は、「我々はボクシングや選手との間に問題はない。」と述べた。
「ボクシング選手は、誠実で透明性のある国際連盟に統治される資格がある」
これに対してIBAは、IOCが「とてつもない間違い」を犯したと非難し、この動きを第2次世界大戦におけるドイツの行動になぞらえた。
IBAは声明で「我々は、IOCが行程表にまとめたすべての勧告を成功裏に実施した」と主張した。
「困難な状況にもかかわらず、IBAはボクシングの発展と、最高水準の公式トーナメントと世界選手権の開催に全力を尽くしている」
「今回の決定は、世界のボクシング界にとって破滅的なもので、ボクシングとアスリートのために行動するというIOCの主張とは明らかに矛盾している」
スポーツ仲裁裁判所は、この決定に対するIBAの上訴を却下した。
五輪のボクシングはどうなるのか
2023年には、新たな統括団体「ワールド・ボクシング」が設立された。
新組織は五つの制約の中で、「ボクシングを五輪ムーブメントの中心に据え続ける」、「ボクサーの利益を最優先する」と述べている。
また、IBAの問題に絡んで2028年大会から暫定的に除外されているボクシングを、五輪競技として維持することも重要な目標の一つとなっている。
しかしワールド・ボクシングは今なお、このスポーツの世界的な統括団体としての承認を得るために、IOCと話し合いを続けている。
同団体は、イギリス、ドイツ、オランダ、ニュージーランド、フィリピン、スウェーデン、アメリカの代表によって支えられている。
IBAは以前、「不正な」組織の設立を「強く非難する」と述べ、「公式な世界統括団体としての自治を守るために一連の行動を開始した」と述べている。
こうした中で、東京大会ではボクシング競技はIBAではなくIOCが運営した。
IOCは2019年、五輪におけるドーピング・コントロールの組織と管理の責任を、国際検査機関(ITA)に委ねた。
IOCは、ドーピング製品の使用や提供が発覚した者に対しては「ゼロ容認方針」をとると述べた。
検査には男性ホルモンの一種であるテストステロンの測定が含まれるが、それだけに限定されるものではない。
女子競技の適性資格についてのIOCの立場
IOCは2021年、女子スポーツにおけるトランスジェンダー選手に関する新しいガイダンスを発表した。
これにより、各国の競技連盟が、それぞれののスポーツにおける資格基準を決定する責任を負うことになった。
この「公平で、包摂的、そして性自認や性の多様性に基づく差別のないIOCの枠組み」は、重量挙げのローレル・ハバード選手が東京大会で、生まれた時とは異なる性別で五輪に出場した初のトランスジェンダー選手となった余波の中で生まれた。
IOCは、トランスジェンダーの選手が自動的に女子種目で不当な優位に立つという仮定があってはならないとしながらも、各競技団体が五輪大会の出場選手を選考する際に沿うべき10の原則を定めた。
それ以来、陸上競技や水上競技、ラグビーなど多くのスポーツが、トランスジェンダー女性が女子競技に参加することを禁止している。
しかし、競技によってルールの適用が異なるため、トランスジェンダー女性や、性分化疾患(DSD)の選手が出場できる女子競技もある。
五輪のボクシングを監督してきたIOCは、東京大会以降、出場資格基準のルールを更新していない。そのため、ボクシングもその一つとなっている。
IOCは「IF(国際競技連盟)が定める、オリンピック競技大会への出場資格を有し、その資格を満たしたアスリートの参加を支持する。IOCはIFを通じて、出場資格を得た選手に対し、性自認および/または性的特徴にもとづく差別を行わない」としている。
なぜケリフ選手と林選手の検査が注目を浴びたのか
ケリフ選手と林選手に対するIBAの対応は、昨年の世界選手権前後に報道されていた。しかし欧米各国が大会をボイコットしていたため、大きくは報じられていなかった。
IOCはパリ大会が始まる前、メディア情報ポータルにこの件の詳細を掲載したが、後に削除している。
女子スポーツやトランスジェンダーの選手、DSDを持つ人々に対する注目が高まる中、検査に不合格だった選手が女子スポーツに出場するとIOCが発表したことで、メディアに取り上げられるようになった。
それ以来、IOCは両選手が「女性として生まれ、女性として育った」と強調している。一方IBAは、2023年の検査結果は、2人の女子ボクシングへの出場資格を疑問視するものだと主張し続けている。
今後の展開は?
ケリフ選手は3日に行われた66キロ級の準々決勝でハンガリー代表のハモリ・アンナルツァ選手に勝利。全3ラウンドを戦った後、全ジャッジ一致の判定で勝利した。
ケリフ選手は6日の準決勝で、タイのスワンナーペン選手と対戦する。
林選手も4日、57キロ級の準々決勝でブルガリアのスヴェトラーナ・スタネヴァ選手をジャッジ全員一致の判定勝ちで下し、準決勝に進んだ。
しかし試合後、ブルガリア側のコーチが、林選手の出場を認めるべきではなかったと述べた。スタネヴァも不満をあらわにして「ノー、ノー」と叫びながら、指でバツを作りアリーナを後にした。
林選手は7日の準決勝で、トルコのエシュラ・ユルドゥズカフラマン選手と対戦する。
ボクシングは3位決定戦がないため、両選手とも、仮に準決勝で敗れても銅メダルを手にすることになる。
こうした中、IBAは5日も記者会見を開き、「失格理由についての詳細な説明」をするとしている。
(英語記事 Boxing’s gender row - what's going on and are Russia involved?/ Lin secures medal amid eligibility row)