開戦から2年以上が経過したウクライナ戦争。この戦争の趨勢を見極めるには、ロシア・ウクライナ双方の国民の「意思」を、注意深く見定める必要があります。
2024年3月の大統領選で、得票率87%と「圧勝」したプーチン大統領。だが彼への支持率は、どこまで信用できる数字なのか?
ロシア人の生の声と、プーチン氏の人生を追い、ロシアにおけるプーチン支持の実像に迫る。
*本記事は黒川信雄氏の著書『空爆と制裁 元モスクワ特派員が見た戦時下のキーウとモスクワ』(ウェッジ)の一部を抜粋したものです。
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2000年の就任以来、ロシアを実質的に20年以上にわたり統治し続け、21世紀の現代において、さらなる領土拡張のためにウクライナに侵攻したプーチン氏。国内の統治においても、時に自国民への弾圧も辞さないその強烈な手法は、一体どのようにして培われたのか。
ウラジーミル・プーチン氏は1952年10月に、旧ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれた。兄がふたりいたが、ひとりは第二次世界大戦前に、もうひとりは大戦中に死亡している。レニングラードは戦時中、ナチス・ドイツ軍により約900日にわたり包囲され、膨大な数の市民が死亡した悲惨な歴史を持つ都市だ。そのような戦争が終結し、復興に向けて歩み始めた街の中で、プーチン氏は育ったことになる。
プーチン氏は少年時代、学業において必ずしも優秀な学生ではなかったとされる。しかし、サンボ(柔道とレスリングを組み合わせたようなソ連発祥の格闘技)、のちに柔道を学び、高校卒業後はレニングラード大学で法律を専攻した。
一九七五年に大学を卒業した後、旧ソ連の諜報機関である国家保安委員会(KGB)に就職し、モスクワにあるKGB赤旗大学での訓練を終えると、1985年には東ドイツのドレスデンに派遣された。プーチン氏はここで、1980年代後半に東欧を覆った民主化のうねりに直面することになる。
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊したころ、ドレスデンにあった旧東ドイツの情報機関「国家保安省」(通称・シュタージ)の拠点に、暴徒となったドイツ人の群衆が押し寄せたことがあった。プーチン氏は地下室で機密文書を処分する作業を行っていたが、群衆が集まるなか、プーチン氏は意を決してボディーガードを引き連れ建物の外に出て、群衆と対峙したという。プーチン氏はその際、武力を使い拠点を防衛することも辞さない覚悟だったというが、その日は幸い、そこまでの事態には至らなかった。
ただ、この出来事は、プーチン氏の心に衝撃を与えた。なぜなら、プーチン氏はソ連の軍事基地に応援を要請したものの、〝モスクワからの命令がなければ、動くことはできない〟と回答されたからだ。アメリカ国家安全保障会議(NSC)でヨーロッパ・ロシア担当上級部長を務めたフィオナ・ヒル氏によれば、このときの出来事についてプーチン氏は「われわれを守るために、指一本上げる者さえいなかった」と述懐し、政府に見捨てられた気持ちになったという。ソ連という国の弱体化を、若き日のプーチン氏は見せつけられた。
そして、ソ連崩壊の直前の1990年に、プーチン氏はレニングラードに呼び戻される。KGBの現役予備役となり、レニングラード大学で学長補佐官に就任した。そして当時の同大学教授で、後にサンクトペテルブルク市長となるアナトーリ・サプチャーク氏と出会う。サプチャーク氏が大学を辞めて、レニングラード市ソビエトの議長に就任した際に、プーチン氏はサプチャーク氏の顧問に就任。そして市長選に出馬したサプチャーク氏が勝利すると、1991年6月にプーチン氏は副市長に就任する。ソ連崩壊の約半年前のことだ。そして副市長就任の2カ月後には、プーチン氏はKGBを辞職する。
プーチン氏は最近のインタビューで、1990年代には自ら、ドレスデンから持ち帰った車を使い〝白タク〟の運転手を行っていたと証言している。白タクは、ソ連崩壊後の経済混乱を象徴するような仕事で、車を持っていた多くの人々が日銭を稼ぐために行っていた仕事だ。もし事実であれば、プーチン氏もまた、ソ連崩壊後の経済混乱に深く巻き込まれていたことになる。
KGB出身の大統領
1980年代から90年代初頭にかけて、プーチン氏はソ連崩壊の悲哀を痛切に身に感じた。政府への幻滅、経済の崩壊、生活苦が、プーチン氏を襲った。しかしその一方で、プーチン氏はサプチャーク氏との出会いをきっかけに政治の世界に足を踏み出し、その後は一定の紆余曲折はあったものの、出世街道をひた走ることになる。