2024年8月31日(土)

絵画のヒストリア

2024年8月31日

「国家という建築物のモデルを描け」

 1937年夏、この「美の都」でほぼ同時に二つの美術展が開かれた。

 ヒトラーがこのためにミュンヘンのプリンツレゲンテン通りに建設を進めていた「ドイツ藝術の家」を会場にした「大ドイツ美術展」がそのひとつである。

「芸術の家」(Photo: Andreas Praefcke, CC BY 3.0 ウィキメディア・コモンズ経由で)

 150メートルにわたる壮麗な古代ギリシャ風の列柱が正面のファザードを飾る「ドイツ芸術の家」は1933年10月に定礎式が行なわれた。会場でヒトラーは「若いドイツはみずからの芸術のために専用の家を建設する」と得意満面で演説したが、その時彼が演壇で振り下ろした銀製のハンマーが真二つに折れるという椿事が起こった。ミュンヘンに残され数少ないナチス建築の一つが、その後たどる運命を暗示するかのように――。

 「大ドイツ美術展」は1937年7月に開幕する。

「大ドイツ美術展」にのぞんだヒトラー(右から2番目)。隣にはアドルフ・ツィーグラー(ullstein bild Dtl. /gettyimages)

 ナチスドイツがその国家の〈故郷〉とした「血と土」という理念から生まれた「ナチス絵画」は、そこではどのようにして選ばれていったのか。〈ドイツ芸術の家〉の展示の出品審査をとりまとめるため、ヒトラーのお気に入りで審査委員長の座に就いたのが、アドルフ・ツィーグラーという、ほとんど無名といっていい画家であった。

 ナチ党全国指導部の造形美術部門担当者に引き揚げられ、「大ドイツ美術展」が開かれる前年には全国造形美術院の総裁になっている。そればかりか、展覧会場の「ドイツ芸術の家」の展示室の正面には、ツィ―グラー自身の手になる『四大元素』と題した3点のパネルの裸婦像が威風堂々と展示されているのである。

 とはいえ、その『四大元素』はモデルのぎこちないポーズと強張った表情が裸体の輝きを抑え込んでしまい、4人の裸婦は生気を欠いて重苦しい。ヒトラーが「ツィ―グラーは世界でもっともすぐれた肉体画家だ」とこの絵をたたえたというのが事実ならば、「ナチス絵画」の美的な水準がどのようなものであったかは、おのずからあきらかだろう。

 『四大元素』は左のパネルの女性がトーチの〈火〉を手にし、中央の二人はそれぞれ穀物の束と水が入った器を持つ。髪をなびかせた右の女性だけは何も持たずに、顔を観者の方へ向けている。

 それぞれのモデルの身の周りには赤、白、黄の布が脱ぎ捨てたようにわだかまっている。この絵は〈大地〉と〈水〉、〈火〉と〈風〉という、古代ギリシャの自然哲学が唱えた世界を構成する四つの基本要素を〈祖国〉のドイツに重ねている。

 「国家という建築物のモデルを描け」

 ヒトラーがこのように求めてツィーグラーに描かせた『四大元素』は、「血と土」に象徴されるゲルマン民族とドイツの風土を通して、4人の女性の裸像のなかにナチズムの世界観を造形しようと試みた、まことに政治的な寓意画なのである。

 1937年7月18日。「ドイツ芸術の家」で「大ドイツ展」の開会式が始まった。ヒトラーはこの開会式のために一週間も前にミュンヘンに入って準備を指揮した。

 街角には赤と黒の巨大なハーケンクロイツの旗が林立し、連日のようにドイツ民族の歴史をたたえるパレードが繰り出して、ドイツの「芸術首都」はナチスの祝祭空間に塗り替えられていった。

 親衛隊の儀仗兵が左右に控えた会場の深紅のカーペットを踏みしめて、開会式にのぞんだヒトラーは甲高い声をはりあげて演説をはじめ、それは延々一時間にも及んでゆく。

 〈この家はドイツ民族によって、何らかの国際芸術のためではなく‥‥真の永遠のドイツ藝術のため、ドイツ民族の芸術のために‥‥造られた神殿であって‥‥ドイツ民族がこれらの部屋を歩けば、ここでも私を自分たちの代弁者、助言者と認めるであろうことを、私は知っている〉


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