宣長を支えた
松坂の力
宣長の学者人生は、松坂との関わり抜きには語れない。お伊勢参りの参道に沿うこの街には、常に多様な人々の往来があった。宣長の国学の出発も、松坂に立ち寄った賀茂真淵に弟子入りしたことから始まっている。宣長は『古事記』の研究への思いを真淵に訴え、賛同と助言を得て、意を強くする。
宣長の自宅は松坂の魚町通りにあった。一筋隣の伊勢街道には三越を創業した三井高利の自宅もある。表通りに面して診療をした「店の間」があり、奥に向かって5間ある他、土間に台所と風呂が備わり、さらに奥が中庭と厠になっている。これに土蔵があれば典型的な中流商家だろう。ここで宣長は妻と5人の子どもを養いつつ、奥の8畳間で古典を講じ、歌会を催し、自らの学問に励んだ。
53歳の折、宣長は2階に小さな書斎を増築する。その頃、体調がすぐれず、『古事記伝』の執筆や古典講釈を中断している。床付の4畳半、お城に向けて大きな窓が開かれたこの書斎に一人籠り、長い道のりの小休止としたのかもしれない。鈴の音が好きだった宣長は、大小36個の鈴を付けた一連の柱掛鈴を作り、床の間に飾った。お気に入りの一室は「鈴屋」と名付けられた。
宣長の研究が世に流布したのも、松坂のもつ力が大きかった。学問は本に残すことで後世に伝わる、それが信念だった宣長は、多くの本を出版した。木版印刷の発達と重なったことが大きかったが、それを支えたのは松坂の財力であり、支援者の人脈であったと、記念館の学芸員、井田ももさんは指摘する。出版された本は伊勢神宮の御師によって諸国に運ばれることもあり、その地に宣長の門人を増やしていった。
宣長が使った大型の薬箱がいまも残され、医者としての生活を伝えている。診察に追われて日暮れると、集まってくる学問好き相手に古典を講じ、夜更けてようやく机につく。小さな書斎「鈴屋」で広大無辺な学問の世界に遊ぶ。その人生を知るにつけ、生涯をかけて学ぶとどれほどのことがなせるものか、その思いに尽きる。