2024年11月22日(金)

偉人の愛した一室

2024年9月22日

宣長を支えた
松坂の力

 宣長の学者人生は、松坂との関わり抜きには語れない。お伊勢参りの参道に沿うこの街には、常に多様な人々の往来があった。宣長の国学の出発も、松坂に立ち寄った賀茂真淵に弟子入りしたことから始まっている。宣長は『古事記』の研究への思いを真淵に訴え、賛同と助言を得て、意を強くする。

 宣長の自宅は松坂の魚町通りにあった。一筋隣の伊勢街道には三越を創業した三井高利の自宅もある。表通りに面して診療をした「店の間」があり、奥に向かって5間ある他、土間に台所と風呂が備わり、さらに奥が中庭と厠になっている。これに土蔵があれば典型的な中流商家だろう。ここで宣長は妻と5人の子どもを養いつつ、奥の8畳間で古典を講じ、歌会を催し、自らの学問に励んだ。

中庭の見える一番広い8畳間。宣長に学ぶべく、多くの門下生たちが訪れたことだろう。

 53歳の折、宣長は2階に小さな書斎を増築する。その頃、体調がすぐれず、『古事記伝』の執筆や古典講釈を中断している。床付の4畳半、お城に向けて大きな窓が開かれたこの書斎に一人籠り、長い道のりの小休止としたのかもしれない。鈴の音が好きだった宣長は、大小36個の鈴を付けた一連の柱掛鈴を作り、床の間に飾った。お気に入りの一室は「鈴屋」と名付けられた。

「鈴屋」には桜材や竹製の飾り柱を作るなど、宣長のこだわりがつまっている。床の間の脇には自分で考えて息子に作らせた柱掛鈴を掛け、勉強に疲れたらこの鈴の音を聞き、リフレッシュしていたという
柱掛鈴は赤い紐に小さな鈴を6個ずつ、6カ所に結びつけてある。
鈴好きの宣長には弟子らから多くの鈴が贈られた。宣長ゆかりの「驛鈴」は松阪市のシンボルになっている

 宣長の研究が世に流布したのも、松坂のもつ力が大きかった。学問は本に残すことで後世に伝わる、それが信念だった宣長は、多くの本を出版した。木版印刷の発達と重なったことが大きかったが、それを支えたのは松坂の財力であり、支援者の人脈であったと、記念館の学芸員、井田ももさんは指摘する。出版された本は伊勢神宮の御師によって諸国に運ばれることもあり、その地に宣長の門人を増やしていった。

著作以外にもどんなことでも記録に残す性格で、日記は自らが生まれた日から残されている
書斎のある2階に上がるための箱階段。下から3段は取り外せるようになっており、部屋を広く使うことができる。

 宣長が使った大型の薬箱がいまも残され、医者としての生活を伝えている。診察に追われて日暮れると、集まってくる学問好き相手に古典を講じ、夜更けてようやく机につく。小さな書斎「鈴屋」で広大無辺な学問の世界に遊ぶ。その人生を知るにつけ、生涯をかけて学ぶとどれほどのことがなせるものか、その思いに尽きる。

患者がいれば元旦でも診察し、約5キロあるこの薬箱を持って歩いて伊勢まで往診に行くこともあった旧宅を管理し公開している本居宣長記念館。展示室では自筆稿本類や遺品、自画像などの資料を多数公開している他、映像やクイズなどによって楽しく学ぶことができる。
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Wedge 2024年10月号より
孤独・孤立社会の果て 誰もが当事者になる時代
孤独・孤立社会の果て 誰もが当事者になる時代

孤独・孤立は誰が対処すべき問題なのか。 内閣府の定義によれば、「孤独」とはひとりぼっちと感じる精神的な状態や寂しい感情を指す主観的な概念であり、「孤立」とは社会とのつながりや助けが少ない状態を指す客観的な概念である。孤独と孤立は密接に関連しており、どちらも心身の健康に悪影響を及ぼす可能性がある。 政府は2021年、「孤独・孤立対策担当大臣」を新設し、この問題に対する社会全体での支援の必要性を説いている。ただ、当事者やその家族などが置かれた状況は多岐にわたる。感じ方や捉え方も人によって異なり、孤独・孤立の問題に対して、国として対処するには限界がある。 戦後日本は、高度経済成長期から現在に至るまで、「個人の自由」が大きく尊重され、人々は自由を享受する一方、社会的なつながりを捨てることを選択してきた。その副作用として発露した孤独・孤立の問題は、自ら選んだ行為の結果であり、当事者の責任で解決すべき問題であると考える人もいるかもしれない。 だが、取材を通じて小誌取材班が感じたことは、当事者だけの責任と決めつけてはならないということだ――

 


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