しかし、子ども・若者の居場所には大人社会の有用性と機能性、規範性重視の世界から少しはずれて、羽を休めるような場が必要なのです。そこで大切になるのが、「偶発性」です。仕組まれた体験ではなく、友達と遊んだり、会話をしたりしている中で、偶発的に未知な世界と出会い、これまでの自己が揺さぶられ、新たな意味を発見したり、今ここに生きていることの充足感を得たりするような体験です。
これは、冒頭に述べたように、子ども時代にしておくべき原体験、あるいは野生的な体験とも言い換えることができるでしょう。
それなら、偶発性に出会えるように、学校教育の中に仕組みとして取り入れることはできないのかという意見もあるかもしれません。私としては、そのような「学校化」は避けるべきという立場です。なぜなら、結局は、仕組まれた評価的なものになってしまうからです。そうではなく、大人も子どもも一緒になって偶発性に出会えるような「場」をつくっていくことが大切なのではないでしょうか。
例えば、NPO法人日本冒険遊び場づくり協会では『ケガと弁当は自分持ち』というスローガンで、子ども自身の発想と創造力にまかせ、廃材で何かを作ったり、大きな穴を掘ってみたり、ツリーハウスをつくったりすることができる「場づくり」をしています。
他者との交流を通じて
身体性を取り戻す
学校任せにするのではなく、親も自分たちができることをしなければなりません。「ワーク・ライフ・バランス」の重要性が叫ばれていますが、ワークとライフの間に「コミュニティー」の視点が抜け落ちています。本来であれば、コミュニティーに対しても、自分でできることを少しずつ出し合うことが大切です。
小学生による暴力行為発生率が中高校生を抜いたというデータがあります(文部科学省「令和4年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」)。それだけ、子どもが大人からのプレッシャーに押しつぶされそうになっているということの証左でしょう。また、SNSなど非対面でのコミュニケーション、記号的なやりとりが増えた結果、身体性あるいは身体感覚を失い、他者の表情や声色をうかがったり、自分の感情を言葉で表現したりすることができなくなっている表れだと思います。
現代における「自立」の実態は「孤独」と同義とも言えるほどやせ細り、子ども・若者にとっては、希望よりも無理やり押し出されるような、〝強いられた自立〟へと変貌しています。もっと自由に、失敗しながら子どもたちには様々な体験をさせたいものです。
若者が強い孤独感を抱くような社会に活力があるはずがありません。まずは我々大人たちの考え方や行動を変えていく必要があります。