2024年9月27日(金)

孤独・孤立社会の果て 誰もが当事者になる時代

2024年9月27日

 しかし、子ども・若者の居場所には大人社会の有用性と機能性、規範性重視の世界から少しはずれて、羽を休めるような場が必要なのです。そこで大切になるのが、「偶発性」です。仕組まれた体験ではなく、友達と遊んだり、会話をしたりしている中で、偶発的に未知な世界と出会い、これまでの自己が揺さぶられ、新たな意味を発見したり、今ここに生きていることの充足感を得たりするような体験です。

 これは、冒頭に述べたように、子ども時代にしておくべき原体験、あるいは野生的な体験とも言い換えることができるでしょう。

 それなら、偶発性に出会えるように、学校教育の中に仕組みとして取り入れることはできないのかという意見もあるかもしれません。私としては、そのような「学校化」は避けるべきという立場です。なぜなら、結局は、仕組まれた評価的なものになってしまうからです。そうではなく、大人も子どもも一緒になって偶発性に出会えるような「場」をつくっていくことが大切なのではないでしょうか。

 例えば、NPO法人日本冒険遊び場づくり協会では『ケガと弁当は自分持ち』というスローガンで、子ども自身の発想と創造力にまかせ、廃材で何かを作ったり、大きな穴を掘ってみたり、ツリーハウスをつくったりすることができる「場づくり」をしています。

他者との交流を通じて
身体性を取り戻す

 学校任せにするのではなく、親も自分たちができることをしなければなりません。「ワーク・ライフ・バランス」の重要性が叫ばれていますが、ワークとライフの間に「コミュニティー」の視点が抜け落ちています。本来であれば、コミュニティーに対しても、自分でできることを少しずつ出し合うことが大切です。

 小学生による暴力行為発生率が中高校生を抜いたというデータがあります(文部科学省「令和4年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」)。それだけ、子どもが大人からのプレッシャーに押しつぶされそうになっているということの証左でしょう。また、SNSなど非対面でのコミュニケーション、記号的なやりとりが増えた結果、身体性あるいは身体感覚を失い、他者の表情や声色をうかがったり、自分の感情を言葉で表現したりすることができなくなっている表れだと思います。

 現代における「自立」の実態は「孤独」と同義とも言えるほどやせ細り、子ども・若者にとっては、希望よりも無理やり押し出されるような、〝強いられた自立〟へと変貌しています。もっと自由に、失敗しながら子どもたちには様々な体験をさせたいものです。 

 若者が強い孤独感を抱くような社会に活力があるはずがありません。まずは我々大人たちの考え方や行動を変えていく必要があります。

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Wedge 2024年10月号より
孤独・孤立社会の果て 誰もが当事者になる時代
孤独・孤立社会の果て 誰もが当事者になる時代

孤独・孤立は誰が対処すべき問題なのか。 内閣府の定義によれば、「孤独」とはひとりぼっちと感じる精神的な状態や寂しい感情を指す主観的な概念であり、「孤立」とは社会とのつながりや助けが少ない状態を指す客観的な概念である。孤独と孤立は密接に関連しており、どちらも心身の健康に悪影響を及ぼす可能性がある。 政府は2021年、「孤独・孤立対策担当大臣」を新設し、この問題に対する社会全体での支援の必要性を説いている。ただ、当事者やその家族などが置かれた状況は多岐にわたる。感じ方や捉え方も人によって異なり、孤独・孤立の問題に対して、国として対処するには限界がある。 戦後日本は、高度経済成長期から現在に至るまで、「個人の自由」が大きく尊重され、人々は自由を享受する一方、社会的なつながりを捨てることを選択してきた。その副作用として発露した孤独・孤立の問題は、自ら選んだ行為の結果であり、当事者の責任で解決すべき問題であると考える人もいるかもしれない。 だが、取材を通じて小誌取材班が感じたことは、当事者だけの責任と決めつけてはならないということだ――

 


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