つながりは「お膳立て」を
しなければ持てない時代
コロナ禍が孤独・孤立を加速させた原因として、災害としての特殊性があげられる。東日本大震災の時の「絆」ブームのように、通常の災害はつながりを深める方向に作用しがちだ。しかしコロナ禍では、つながりは不要不急のものと見なされ、淘汰されていった。私たちは自らにとって必要なつながりを検討し、選別したのである。
もう一つ重要な要因としてあげられるのが、2000年代の第三期に普及した情報通信端末である。端末同士で人を結びつける携帯電話・スマートフォンは、つながりにおける物理的な場の必要性を縮減し、つながりをより選別的にする。
わかりやすい例として『ドラえもん』に登場する少年たちをあげておこう。のび太をはじめとする少年たちは、学校が終わると空き地という「場」に赴き交流をする。空き地には、いじめっこなど嫌な人もいるかもしれないが、人と会うには空き地に行くしかない。そのため、放課後になると彼らは空き地に集まり、居合わせた人と交流していた。しかし、個々人が携帯、スマホを持つようになると事情は変わる。少年たちはもう、〝誰か〟に会うために空き地に行く必要はない。ジャイアンやスネ夫に会うのが嫌ならば、スマホを通じてあらかじめ会う人を確保し、そのメンバーでどこかに待ち合わせればよいのだ。個々人が端末で結ばれた中で展開されるコミュニケーションには、無意識のうちに選別的なまなざしが入ってしまうのである。
つながりを補償する「場」の機能が弱くなった社会では、端末を駆使しつつ、ある程度積極的に「外の人」と連絡をとる必要が生じてきた。しかし、誰もが積極的に誰かと連絡を取り、交流を始められるわけではない。むしろ、日本社会では誰かから声をかけられるのを待つ「誘い待ち型」の人のほうが多いだろう。
これらの人に対するコロナの影響は決して小さくなかった。コロナ禍による接触の選別により、組織での懇親会は不要と見なされ、見直し対象となった。懇親会は、負の側面が取りざたされがちだが、「誘い待ち型」の人に安定的なつながりを提供する機能もあった。懇親会の喪失を歓迎するのは、「他にやりたいことがある人」や、「つき合いたい相手がいる人」「人づき合いがとにかく嫌な人」くらいなのではないか。
その中間に属するとも言える「誘い待ち型」の人は、結果として、より積極的に他者に声をかけるよう求められるようになった。いまや孤独・孤立を解消するには、面倒や気恥ずかしさがあっても、つながりに入れるよう自ら働きかけねばならないのである。とはいえ、誰もがそのようにできるわけではない。このような人々に対しては、誰かとつながることができるよう誰かが「お膳立て」をする必要が増している。