クマの出没とNIMBY問題の構造的類似
これらの現象を単なる感情論として片付けるのは容易だが、そこには社会学的視点で捉えるべきNIMBY(Not In My Back Yard:私の家の裏庭には持ってこないで)問題としての意味がある。
NIMBY問題とは、「公共のために必要な事業や施設であることは理解しているものの、自分の近所で行われることは反対する」という住民のエゴイズムに使われる概念である。主に空港や工場、発電所、ゴミ処理場、刑務所などが槍玉にあげられ、ときに保育園や幼稚園、児童相談所、病院や特別養護老人ホームなどが対象にされることもある。
これも前掲した書籍に記したが、近年では「公共のために必要な事業や施設であることは理解している」前提や公共と「裏庭」の境界すら見失い、たまたま自分の視界に入った心的不快の排除、承認欲求などの自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派性に都合の良い主張ばかりが肥大化したケースも見られる。
代償となる心的・物的・時間的コストやリソース、解決努力や譲歩といった負担の全ては他者に丸投げした上で、感謝どころか「悪役」として無限に叩けるサンドバッグにさえしようとする。挙句、それら甘えやエゴを「やさしさ」「社会正義」「被害者側」「アドバイスを与えてやった功労者」であるかのように正当化する立ち居振る舞いさえ珍しくない。
クマをめぐる抗議活動も、この構造に類似性を持つ。都市部やクマが生息しない地域に住む、本来であれば何ら当事者性を持たない抗議者が、現地のリスクや生活環境に無関心なまま当事者を差し置き、「クマを殺すな」などと「被害者」「当事者」然として声を上げる。一方で、クマ出没リスクに直面する地域住民や行政といった本来の当事者や被害者は苦しい実態を理解してもらえず、むしろ「悪役」のように糾弾される立場に追い込まれる。
「自然を守れ」「生き物を殺すな」という大義名分は、クマ駆除に反対する抗議者の主張を正当化する強力な論理として機能していると、抗議者側は見做しているであろう。しかし、その裏には自己満足・免罪的な「やさしさ」(優しさ/易しさ)が潜む。それら『「やさしさ」の免罪符』がいかに近視眼的であり、現実や人権を軽んじた詭弁・暴力・ハラスメントであるかを可視化させる必要がある。
クマが脅威とならない地域からの抗議者らは、現地の被害など、まるで「取るに足りない辺境で起きた他人事」のように思っているのだろう。だからこそ、実態を真摯に学ばずとも「自分が格上の存在で尊重されるべき」であり「易しく」口出しできると、さも当たり前のように問題や当事者全てを見下している。要するに、彼ら彼女らにとって自分の視界内から「クマが殺される」という不快な出来事が排除されることは、地方に暮らす人々の生活や人権、命よりも遥かに重いということだ。
今、社会で議論されるべきは「クマ殺処分の是非」などでは全くない。いかにこうしたノイズに相応の代償を返し、理不尽な暴力から当事者と地域を守るかだ。