人は緑なしには生きていけない。特に緑豊かな日本列島に育った私たちには、森を、樹木を、草花を求める本性がある。
しかし、都市の中であっても上質な緑は、それ相応のリスクなしには得られないのである。それであれば、ある程度の覚悟を持って緑に対しなければならない。緑から発生するあらゆるリスクを知った上で、それを回避する手段を個々人が持つべきである。
何もかも、終いには命まで国や自治体に預けるのではなく、最後には自分の身は自分でしか守れないことを知るべきだ。常に上の方を気にかけて歩く。それだけで、各段に危険は回避できる。
対策の難しさと公共サービスの限界
人は多くの仲間と支え合って生きてい行く動物だ。その共同生活をもっとも効率的に快適に送れるように都市が進化してきた。しかし、都市生活は、国や地方自治体の公共サービスなしには成り立たない。衣食住は原則人々がそれぞれの働きによって手に入れるとしても、衛生・安全に関してはほぼ市区町村にお任せ状態である。
山の中ではそうはいかない。自分の命は自分で守るしかない。襲いかかってくるクマもイノシシも自分で追い払わなければいけないし、倒れてくる木や落ちてくる枝は、自分でよけるしかない。
かつての山村であれば、これらは当たり前のことで子供にいたるまで熟知していた。都市なら市区町村の責任を問うことができるかも知れないが、山の中ではそれは空しく響くだけである。日本人は自然と隔絶していく過程で、自らなすべきことを忘れて、過保護に陥ってしまった。
ところが快適な都市生活を享受するための公共サービスにも限界が見え始めた。サービスへの要望が質・量ともに拡大する一方、人口減少、少子化によってそれら要望を受け入れる態勢づくりが不可能になりつつある。間口が広がりすぎたので、ここから先は都市内へ浸透する野生動物対策と都市内で膨張する森(都市林・街路樹・樹木群等)にかかる安全対策に絞って論じよう。
クマに関しては、まず生息数も不明である。生息数やそれが増えるのか減るのかの動向もわからなければ、被害対策も保護もできない。AIで何でもできる世の中に見えるが、森林の中の見えない世界はあくまで推定によるしかない。一口に科学的データと言っても、ものによりけりなのだ。しかも調査には膨大な人手が必要である。専門的知識をもった調査員など急速に養成できるはずもなく、第一山中をまともに歩ける人が乏しいのだ。
仮に猟銃による駆除が必要だとしても、ハンターがいない。銃の操作だけでなく安全な保管や厳格なルールを守る高い意志が必要だ。そしてここでも道なき山を薮漕ぎしながら駆け回れる技術と体力が前提である。
国にしろ、地方自治体にしろ、このようなクマ対策の専門職を養成し、雇用することができるのだろうか。それを希望する人材が有りや無しや、これは費用の問題ではない。
都市林にしても同様だ。どれが危険な樹木なのか網羅的に判定できるものではない。仮に高性能な判定機ができたとしても、今度はすべてが危険木になってしまう可能性だってある。
また危険木を伐採するのも大変だ。森林の中でも滅多に見られないような大木・高木もあるし、懸崖の松ではないが幹が傾いたり、枝が張ったものも多い。伐採の際に周辺の建物や道路などを傷める恐れが多い。
このような伐採を特殊伐採と呼んでおり、専門の施工業者もいるが、この作業をできる技術者も少なく、当然費用はお高い。市区町村が負担するにしたって、いずれは地方税として市民の負担に跳ね返ってくるのだ。
