コーチンのユダヤ人街とユダヤ教会(シナゴーグ)

11月7日。コーチンのフォート・コチ地区にあるユダヤ人街(Jewish Street)はイスラエル建国以前にはユダヤ人が多数住む一角であった。またコーチン市内にも同様にユダヤ人通りがある。
フォート・コチのユダヤ人街の細い通りの奥にシナゴーグがあった。展示されている解説によると16世紀の欧州で反宗教改革の過激派カトリックと台頭するプロテスタント急進派から逃れてきたユダヤ教徒がコチに定住して最盛期には二千人のユダヤ人街を形成した。紀元前のソロモン王の時代からユダヤ人はアラブ世界やインドと交易していたが当時からコチは交易の中心だった。ユダヤ人街は中東とインドを結ぶ貿易で繁栄したという。
フォート・コチ要塞の司令官の館にはペルシア、ローマ等の古代のコインが多数展示され、コチが西アジア・中東・地中海世界との交易拠点だったことを物語っていた。
なぜ数百年も住んでいたインドからユダヤ人はイスラエルへ移住したのか
1948年にイスラエルが建国されるとユダヤ人街のユダヤ人家族は“約束の地”を求めて徐々にイスラエルに移住した。現在ではユダヤ系住民はほとんどいない。現地で取材していたインド国営テレビのディレクターによると現在コチのユダヤ人街に住むユダヤ人は70代後半の女性1人だけ。彼女はユダヤ伝統の手芸を編んで土産物屋で売っているとのこと。コーチン市内のユダヤ人通りも名前だけであり、聞き取り調査したところ現在ユダヤ人は全く住んでいないとのこと。
数百年も住んで先祖代々手広く商売をして、それなりの安定した生活基盤を捨てて家族で建国間もないイスラエルに移住した背景には何か切迫した理由があったのだろうか。国営TVのディレクターは「おそらくインド独立運動の中で勃興したヒンズー・ナショナリズム(現在のモディ首相率いるインド人民党の党是であるヒンズー至上主義の源流)、ヒンズーに対抗するイスラム教徒の先鋭化というインド独立後のインド亜大陸を覆った大きな潮流にインド在住のユダヤ人は危機感を抱いたのではないか」と推測したが。我々日本人にはわかり難い“流浪の民”の心情である。
兵役を終えたばかりの愛国者の論客青年
11月18日。ケララ州のアレッピーはインド洋に面した美しい砂浜がつづく静かなリゾート。ホステルの二階のテラスでインド洋に沈む夕陽を眺めながらビールを飲んでいた。若いカップルが入って来て隣のテーブルに座った。挨拶すると2人は兵役を終えたばかりのイスラエルの若者であった。ロイ君は英語も流暢でかなりの論客だった。恋人のアビーはロイ君の話を感心しながら頷いて聞いていた。
男子の兵役は平時には34カ月(3年弱)であるが、非常時の現在は兵種により最長3年8カ月まで延長されている。戦時経済のため物価上昇は避けられない。物資・労働力は軍需産業に優先されている。一般産業では労働力不足も起きているが戦争遂行のためには仕方ないことであるとロイは断言した。
イスラエル国民の生存のためにはヨルダン川西岸への定住は不可欠
ロイ君によるとイスラエルは数カ月前に人口1000万人を突破。これはイスラエルの国土面積(占領地域を除く本来の国土は日本の四国とほぼ同じ)からは人口過多(overpopulated)ではないかと筆者はかねてから抱いていた懸念を口にした。
ロイ君は待っていましたとばかりに「本来の国土面積では1000万人が安全に健全に生活することは不可能である。イスラエル国家が存続するためにはヨルダン川西岸(West Bank)は必要不可欠な生活空間(living space)である」と熱弁を振るった。言うまでもないことだがイスラエルのヨルダン川西岸の占領は国連決議違反である。ロイ君の唖然とするような愛国的熱弁は後編へ続く
以上 次回へ続く