2024年12月22日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年9月29日

(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空〉)

パラワン島プエルト・プリンセサの米兵捕虜追悼記念公園

プエルト・プリンセサ大聖堂の内部。戦前の建物は米軍の爆撃で倒壊して 戦後立て直したもの。このようにフィリピンでは米軍の無差別爆撃による民間の被害が大きかったことは銘記しなければならない

 4月9日。パラワン島はフィリピンの東端辺境である。中心地プエルト・プリンセサ港近くの大聖堂を訪ねた。大聖堂は戦時中に損壊し戦後再建された。大聖堂の裏手に古びたレンガ造りの門があり内部は公園になっていた。

 案内板によると公園の敷地は旧日本軍の米兵捕虜収容所だった。捕虜の大半は米兵2300人が落命した“バターン死の行進”(Bataan Death Parade)の生き残りで日本軍の飛行場建設に使役されていた。現在のプエルト・プリンセサ空港である。

捕虜収容所の正門。レンガ造りの正門だけは当時のまま保存されている

 ちなみに“バターン死の行進”の犠牲者の多くはニューメキシコ州出身者であり、同州のミサイル演習場沿いの街道はバターン・メモリアル・ハイウェイと命名され毎年追悼式典が行われている。筆者は米国中西部をドライブ旅行した際に偶然にこの街道を走り「加害側の日本人は忘れても、被害者の米国人は決して忘れない」と彼我の意識格差に愕然としたことを思い出した。

 飛行場建設に使役されていた米兵捕虜150人に話を戻す。1944年12月14日に空襲警報が鳴ると捕虜収容所の日本軍監視隊は150人を防空壕に閉じ込め外からガソリンを撒いて火を放ち、さらに手榴弾を投げ入れ全員の殺害を図った。数十人は防空壕から脱出したが監視隊の機銃掃射を浴びて最終的に脱走して抗日ゲリラに保護されたのは11人のみという惨劇だった。虐殺された139人の名前が慰霊碑に刻まれている。

 この追悼公園はパラワン島の観光名所となっている。中国人の中年団体旅行客が興味深そうにおしゃべりしながら見学していた。彼らは南京虐殺など中国での日本軍の蛮行から類推して“さもありなん”とこの惨劇を捉えたのではないだろうか。

追悼公園中央の業火に焼かれ悶絶する犠牲者の像。まさに正視に堪えない凄惨な姿である

民間の戦争博物館“パラワン特別大隊記念ミュージアム”

 4月11日。プエルト・プリンセサの街外れにある小さな戦争博物館。パラワン島を日本から奪回した米軍パラワン特別大隊(Palawan Special Battalion)から寄贈されたジープ、小銃、記念品等と米軍捕虜虐殺事件と抗日ゲリラが展示の中心。抗日ゲリラのリーダーが後に市長や議員となり戦後復興に活躍したようだ。

 虐殺事件で生き残った11人のプロフィールを紹介していた。例えばグレン・マクドールはアイオワ州の片田舎の地元の高校卒業後1940年海兵隊入隊。コレヒドール要塞で日本軍に降伏して捕虜となりバターン死の行進を経てパラワン島に送られ虐殺事件に遭遇。1945年にはマニラの米軍による戦争犯罪法廷で証人として出廷。退役後も朝鮮戦争に後方支援部隊として応召。13個の勲章を授与。戦後はアイオワ州警察、地元のシェリフ事務所に勤務。2009年に88歳で死去。“Last Man Out”という虐殺事件の本を出版している。

旧捕虜収容所、現在の米軍捕虜追悼公園の正門から海岸線を望む。防空壕から脱出した捕虜は海岸を目指して走った。生存者から事件の一報を受けた米軍は急遽特殊部隊を編成してフィリピン各地の捕虜収容所を一斉に急襲して米兵捕虜の大半を救出した

米兵捕虜虐殺の責任は誰にあるのか

 戦争博物館では戦争犯罪法廷に出廷した旧日本軍被告6人の写真と氏名を展示していた。

 当時飛行場建設・捕虜収容所管理の任に当たっていた大隊長は事前に捕虜の処遇について航空師団長に指示を仰いだ。師団長は、さらにフィリピンを統括する第四航空軍司令官に仰裁。軍司令官からは「米軍上陸が差し迫ると判断され捕虜が呼応する兆しがあれば処分せよ」という曖昧で責任逃れの指示が下りた。

 ジュネーブ条約などの交戦規程では捕虜が脱走・反乱した場合は戦闘員とみなされるとあり軍司令官からの指示は曖昧ではあるが国際法を大きく逸脱するものではないようだ。大隊長は捕虜収容所の隊長に同様に指示した。

 米軍によるマニラ戦争犯罪法廷では軍司令官、航空師団長、大隊長は不問に付されている。捕虜収容所の現場の士官・兵士6人が裁かれ憲兵1人が絞首刑、残りが2年~12年の禁固刑とされたが後に全員減刑されている。部下は上官の命令に従っただけであり、大隊長からの指示を解釈実行した現場の士官に全ての責任があるとは言えないとして犯罪法廷は厳罰を避けたと推測される。モヤモヤした結末である。

軍国主義国家の強制的死生観、戦陣訓が捕虜虐殺の原因なのか

パラワン島捕虜虐殺事件の生き残りの米兵。彼らの出身経歴などは米国退役 軍人会、米軍アーカイブなどで検索できる。全員が高卒以下で20歳前に徴兵された田 舎の平凡な青年であり戦後も良きフツウの市民として過ごしている

 第二次世界大戦後にナチスの強制収容所と並んで日本軍の捕虜虐待が欧米各国の批判を浴びた。ある数字によると日本軍下での米兵捕虜の死亡率は38%、対してドイツ軍下での米兵捕虜死亡率は1%程度という。この数字の根拠は不詳だがドイツでは米軍捕虜は少数であったこと、さらにドイツ軍下でのソ連兵捕虜の扱いを考慮すれば、単純比較は無意味であろう。

 いずれにせよバターン死の行進以外にもサンダカン死の行進、泰緬鉄道建設工事など悪名高い事例が多々ある。日本の場合は米軍の無差別爆撃により捕虜収容所で巻き添えになったり、捕虜の海上輸送中に米軍潜水艦に撃沈されたりしたケースも含むので数字が大きくなるという米国歴史家の分析もあるようだが。

 防衛研究所などの論文によると背景には日本軍将兵(さらには軍属の朝鮮人・台湾人も日本兵を見習って)が戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ』を盲信して、その裏返しとして投降してきた米英兵を蔑視したことがあるようだ。これが捕虜虐待、しいては虐殺の遠因ではないかとの指摘だ。

 戦陣訓は1941年陸軍大臣東条英機が正式に示達したものだが、源流は日清戦争中に山県有朋が発した『決して捕虜とならず、寧ろ潔く一死を遂げ、……日本男児の名誉を全うせよ』という訓示に遡る。

 明治初年以来日本は欧米を模倣したが、日清・日露の戦勝により欧化主義を批判して日本主義・国家主義が台頭。そうしたなかで葉隠れ精神“武士道とは死ぬことと見つけたり”を天皇への忠誠、滅私奉公に抱合していわゆる“皇道的武士道精神”が形成されていったようだ。

マニラ戦争犯罪軍事法廷に出頭した旧日本軍の現場の士官・兵士。中央の黒い平服は弁護人と思われる。被告人も職業軍人を除いては徴兵前は平凡な市井の民であったのだろうか

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