<私が入門した当初は、日本も角界も大変な時期だった。2010年からは野球賭博問題が、そして2011年に入ると、八百長問題が発覚。私が初土俵を踏む予定だった3月場所は、八百長問題のため中止となってしまった。(略)そんな中、3月11日には東日本大震災が発生。東北を中心に、日本は大変な被害に見舞われた>(76~77頁)。大相撲の存続すら危ぶまれる事態の中、照ノ富士は角界入りしたことになる。
間垣部屋の親方は2代目横綱若乃花。照ノ富士は「若三勝」のしこ名が与えられた。しかし、間垣親方は照ノ富士が入門する前から体調を崩しており、入門2年後の13年3月をもって部屋は閉鎖。幕下10枚目まで番付を上げていた照ノ富士たちは伊勢ケ浜部屋に移籍することになった。
師匠の伊勢ケ浜は元横綱旭富士で、横綱日馬富士を育てるなど厳しいけいこで知られていた。照ノ富士にとっては、これが大きな転機となった。
移籍後2場所で6勝1敗の成績を残し、13年秋場所で十両に昇進、晴れて関取の仲間入りを果たした。新十両でいきなり優勝を飾り、3場所で十両を卒業、入門から3年の14年春場所、新入幕を果たした。
幕内に昇格してからも快進撃は続いた。4場所目、東前頭筆頭で6勝9敗と初めて負け越したが、すぐに挽回。15年春場所、新関脇で13勝2敗の好成績を残し、続く夏場所は6連覇中の白鵬が終盤崩れたこともあり、12勝3敗で初優勝を飾った。平成生まれの関取として初の優勝であり、同時に平成生まれ初の大関昇進を決めた。
<当時、私はまだ23歳。(略)横綱・大関というと、雲の上のような存在だ。でも、自分がなってしまったら、だからといって何かが変わるわけでもなく、「なーんだ。結局一緒じゃん」「今までと何が違うんだろう」と思ってしまった>(12~13頁)
両ひざを負傷
もともと酒が大好き。親方の目を盗んで夜の街にも繰り出した。朝まで飲んで、まだ酔っぱらったまま稽古しても勝てた。慢心の日々が続いた。
そんな照ノ富士を待ち受けていたのが「けが」だった。大関として迎えた2場所目の15年秋場所。初日からの連勝が12日目に止まり、迎えた13日目の対戦相手は大関・稀勢の里だった。取り口を自分で解説している。
<立ち合い、当たって前に出ながら右を狙ったが、相手の得意な左四つになった。私は、左を抱えながら投げにいくが、こらえられて土俵中央に戻る。そして稀勢の里関が体を寄せて、私の腕を抱えながら強く押し込んできた。そのとき――。〝ポキン〟。私の右ひざがありえない音を出した。とっさに「やばい…!」と思い、自らその場に座るようにして、土俵に腰を落とした>(109~110頁)
病院での診断は「前十字靱帯断裂」。手術で靱帯をつなげば治るけがではあるが、3場所は休まなければならない。照ノ富士はこう考えた。「せっかく大関に上がった直後。もし休んだら、番付か幕尻まで下がってしまう」。「幕尻」までの降格を避けるため、手術を回避した照ノ富士。だが、痛みをこらえて出場を続けたツケが後に回ってくる。そのツケは「幕尻」どころではなかった……。
強行出場した11月の九州場所。体力に自信がある照ノ富士は「上半身だけでも相撲はとれる」と痛み止めを打って土俵に上がり、今度は左ひざの半月板を損傷してしまった。
ブーイングの嵐
両ひざを痛めた照ノ富士は1場所ごとにカド番を繰り返す不本意な場所が続いた。4度目のカド番となった17年春場所、精神面でも照ノ富士を苦しめる出来事が起きた。
珍しく序盤から勝ち星を重ね、13日目まで1敗を守り、新横綱・稀勢の里と並んで優勝争いのトップに立った。14日目、大関復帰を目指していた琴奨菊との対戦で、照ノ富士は立ち合い、右に大きく変化する注文相撲で13勝目を挙げた。だが、館内は「きたねぇぞ!」「モンゴルへ帰れ!」といった怒号に包まれた。
<容赦ないヤジが私を襲った。拍手など一切ない、異様な空間だった。一つ一つのヤジが鮮明に届き、私の耳を、心を、鋭く突き刺す。>(120頁)
稀勢の里に1差をつけて臨んだ千秋楽だったが、前日のショックから立ち直れない照ノ富士は本割、優勝決定戦とも稀勢の里に敗れ、優勝を逃した。