2026年3月30日(月)

戦災樹木を巡る旅

2026年3月30日

 今春も花見客で賑わう上野。その華やかな賑わいからは想像もつかない過去が、この地には刻まれている。上野公園では、今年も空襲の犠牲者を悼む「時忘れじの集い」が開かれた。そして、同じ公園内の東京都美術館には、空襲で損傷した一本の大イチョウがある。過去には、このイチョウとのコラボレーションによる風景芸術作品も展示された。上野の山で、今も受け継がれる思い、そして今も生き続ける戦災樹木を取材した。前後編で紹介する。

これまでの記事
第1回:【戦後80年】知っていますか? 「戦災樹木」 無口な語り部が私たちに訴えること
第2回:多くの爆弾が降り注いだ「戦災樹木」、東京都内だけでも200本以上…調査で分かった3つの特徴
第3回:山の手空襲から奇跡の再生 「樹齢750年の大銀杏」 米国ゆかりの「善福寺」で見た戦争の爪痕 
第4回:内部診断で捉えた樹木の「驚異の生命力」 関東大震災と空襲、二度の災禍を生き抜いた実態とは
慰霊碑に手を合わせる二代目林家三平さん(筆者撮影、以下同)

 1945年3月10日の東京大空襲から81年が経った。今月9日、台東区上野公園にある寛永寺現龍院では、「哀しみの東京大空襲」と記された慰霊碑を前に「時忘れじの集い」が開かれた。このイベントは、毎年、初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子さんを中心に開かれてきた。昨年12月に海老名さんが亡くなり、今年は長男の林家正蔵さん、次男の二代目林家三平さんらが思いを継承して、22回目を迎えた。

 海老名さんは、東京大空襲の戦争孤児として生き抜いた過去を持つ。そして初代林家三平さんも、戦争当時、米軍との本土決戦となった場合に火薬を背負って突撃する肉弾特攻要員だったことが明かされている。

 太平洋戦争中、東京は100回以上の空襲を受けた。なかでも下町地域を中心とした3月10日の大空襲では、未明0時過ぎから、わずか2時間あまりで10万人もの命が奪われた。当時の記録写真は、白黒でも目を覆いたくなる。紛れもない大量虐殺だ。

 東京大空襲・戦災誌(第1巻p20)には<B29は、目標の周囲にまず巨大な火の壁を作った後、逃げまどう人びとに狙いを定めて、人家の屋根スレスレにまで高度を落として無差別絨毯(じゅうたん)爆撃に移った>と綴られている。

 海老名香葉子さんは当時、小学5年生で静岡に疎開中だったが、東京にいた6人の家族が犠牲となった。一人だけ生き残ったすぐ上の兄が、ぼろぼろの姿で伝えに来たという。その兄も行方不明となり、海老名さんは一人、焼け野原と化した東京へ戻った。それは「生きる戦い」の始まりだったと語る。海老名さんの証言映像はNHKアーカイブス で視聴できる。

 海老名さんは生涯をかけて、平和の尊さを訴え、活動を続けた。現龍院の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」や、上野公園いこいの広場にある母子像の時計台「時忘れじの塔」は海老名さんが中心となって建立・寄贈したもので、総務省の施設紹介で次のよう紹介されている。

<東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。
今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。
建立、寄贈 初代林家三平妻 海老名香葉子 建立有志一同>

左:上野公園憩いの広場にある「時忘れじの塔」 右:時忘れじの塔が建立された2005年に描かれた書画。文章は慰霊碑の後ろに刻まれた言葉を書き写したという。書画を描いた参列者の女性と林家正蔵さん

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